柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「イエスを仰ぎ見よ」ヨハネ20章24-31節、ヘブル12章2節

毎年春、イースターから、ペンテコステまでの50日間を迎えます。この時期はキリスト教会にとって、大切な時期です。この時は、何を根拠に私たちは信仰をもっているのか、私たちの信仰が問われる時でもあります。
人間には生まれる時と、死ぬ時が誰にでもあります。しかし、人間になくて、イエス・キリストにだけある日、それは復活の日イースターです。そして、この復活が私たちクリスチャンの最大の希望であり、主イエスを信じる私たちも主イエスが復活したように、復活する。天で主とお会いし、先に天に帰った聖徒たちと再会するこれが私たちの希望です。

1 最初に、このトマスの事を見ながら、信仰について考えて見よう。

ヨハネ20:28は聖書の中で、最も的確な信仰告白です。
 ◎イエス・キリストを主=神という。・私の主、私の神…この告白が主イエスの弟子に求められる信仰告白です。私の主=主人・総支配者・総責任者、私の神=全能の神 
エス・キリストは自分の総支配者・総責任者そして全能の神本当にそう思っているか?
  ヨハネは長生きした弟子で、マタイ・マルコ・ルカが書いた福音書を全部読んだそして、足りない分をかいたのが、このヨハネの福音者です。
  春になり、花がいっぺんに咲いたような頃、大自然の神秘を思う。
ヨハネは1章で、天地創造のとき、始めに「光あれ」といわれたこのことばがイエス様だと言ったのです。これは天地の創始者ということです。
 しかしヘブル12:2 信仰の創始者…信仰によって、神の恵みを頂く道を始めた人
          信仰の完成者…信仰によって、神の恵みを頂く道を完成した人 
 先週の礼拝のメッセージの箇所の続きを見ていきます。
 主イエスが十字架に架かって死なれ、三日目、女たちに現れた主は夜、皆が集まっているとき、戸が閉まっているのに入って来られた。
 手と脇腹を見せられた。正しく、イエス様だった。−−血だらけだったかというと、そうではない。−−旧約聖書の律法で、神に献げる小羊は、殺したら、血を一滴残らず祭壇に注がなければならない―とある。
 ヨハネ19:34には、死んだかどうかの確認のため脇腹をヤリで刺したとき、血と水が流れ出た。とある。
 十字架でイエス様の全部の血が流れ出て、ニコデモの持ってきた没薬とアロエを混ぜた者を塗られた。いいにおいがした。
 弟子たちは大喜びだった。ああよかった!よかった!と言い、きっとイエス様を何回か触って、皆で喜んで、気がつくともうイエス様はそこにおられない
……… そういう処にトマスが帰って来た。皆失望し、泣いていると思ったら、皆口を揃えて、「主を見た」と大喜びだった。ニコニコしている!
◎トマスはどんな気持ちか…(1)ご馳走を食べ終えたとき、遅れて入って来た人の気持ち すき焼きの臭いが残っている…没薬の香りがしているか?
             (2)そんなはずはない…という気持ち

 トマスはどんな人か? イエス様が大好き… それはペテロに劣らない。
 ヨハネ11:16―ベタニヤの3兄弟のラザロが病気だと、知らせが来たとき、すでに、イエス様の命が狙われていることを知っていたトマスは、エルサレムの方へ行ったら危ないと思った時、「私たちも主と共に、死のうではないか」言った。 
ヨハネ14:5―最後の晩餐のとき、主イエスは自分が十字架刑になることを言われたのに、どこかへ自分たちを置いて行かれることしか、判らなかった。
 その時トマスは「主よどこにいらしゃるのか、私たちにはわかりません。どうしてその道がわかりましょう」と言った。その時、イエス様は「私は道であり、真理であり、命なのです」と言われた。トマスはイエス様が大好き… それはペテロに劣らない。 
しかし、イエス様が捕まえられたとき、ぺテロや他の弟子と同じようにやっぱり逃げた。
 十字架の下に行ったヨハネのように、近くまで行ったかは、判らないが、絶対十字架を彼は見ていた。
 イエス様のことば、最後の叫び声を聴いていた。最後どうされたかも見ていた。
 だから…V25「手に釘の後を見、私の指を脇の処に差し入れ」と言った。他の誰が見ていなくても、自分は見ていた。確実に主は死なれた …甦る? そんなはずはない…
 しかしそのトマスに八日目に現れて、「信じない者にならないで信じる者になりなさい」と言われました。
V29 「あなたは、わたしを見たから信じたのですか」「見ずに信じる者は、幸いです」と言われた。では、他の弟子たちのことばをどうして、信じられるだろうか。弟子たちのには、ちゃんと信じられる根拠があった。
 イエス様は不思議な方で、信じられるように、その素を前に置いてくださっている。
 弟子たちが、人の死んで甦ったのを見たのは、イエス様だけではない。ルカ7:13のやもめの1人息子とラザロの3人である。
 特に、ラザロの場合イエス様より1日長い4日もたって、臭くなっていた。出て来た
 この事実にもとずいて、信じることを主は弟子たちに求められたのである。 
 では、現代の私たちはどうか。v31「これらのことが書かれたのは…」これは、私たちに与えられた聖書の言葉である。
 私たちの人生にも、色々な事がある、苦しい・辛い・もう駄目だと思う時
どうするか…「イエスを仰ぐ」復活して、今も生きておられる主イエスを仰ぐこと
今は、イエス様の姿も、声も聞こえない。しかし、まとわりつく罪をすてて、イエス様の十字架を信じて仰ぐなら、クリスチャンには、心にささやかな、細い御声が聞こえる。
 ある婦人が罪を悔い改めて、洗礼を受けた、暫くして、私の所に来て、「先生、聞こえるんです。心に何か言われるような気がする」その細い御声を静かに祈る時、ハッキリ聞き取ることができる。そのことばは、聖書のことばです。その言葉に私たちクリスチャンは信仰を持って、立つのです。私たちはその細い御声を大事にしないといけない。
ヨハネ21:2…ガリラヤ湖でまた主に会った。ペテロと同じようにトマスは信じなかったことを赦して頂いた。  聖書にはないが、トマスにはトマスのように主イエスは使命を与えられたのではないかと思う。彼は、東の方へ伝道した。ペルシャやインドまで行って、イエス様のことを伝えた言われています。走ったのです。
 悪魔は近づいて来て、罪を犯させようと、狙っている。それに乗ってはいけない。
 絡みつく罪、まとわりつく罪をかなぐりすてて、十字架を見上げる仰ぐ時、必ず私たちに希望と勝利が与えられます。
 

              (宣教者: 柏原教会牧師  西本秀子)