ペンテコステの時に注がれた聖霊が、教会のスタ―トから今日に至るまで、そして一人ひとりの信仰の最初の一歩から今に至るまで、その歩みを刻みこんでおられます。最初のペンテコステの出来事の後にただちに起こったことは、ペテロたちが福音を語り出したことです。本日開かれた聖書箇所には、聖霊によって人々が開眼されたことについて語られています。
Ⅰ.聖書について目が開かれる 14〜21節
聖霊が注がれたのは、神が預言者ヨエルを通して預言されたことの成就でした(17〜21節、ヨエル2章28〜32節)。ヨエルは、メシヤの来臨とイスラエルの信仰復興について語っていますが、その信仰復興は聖霊の注ぎによって起こるのであり、その預言が今ここに実現したというのです。旧約時代において聖霊は特定の人に注がれましたが、『終わりの時』と言われる教会時代は、老若男女の区別なく『すべての人』に聖霊は注がれ、彼らは幻や夢を見、神のことばを語るようになったのです。主の再臨に際して天地宇宙が根底から揺り動かされるときにも、神により頼み、主イエス・キリストを信じている者には救いがあるのです。
さて、このような、ヨエル書の引用から始まって、ペテロの論証はすべて聖書に基づくものでした。それは単に聖書の知識が豊富だったからというのではありません。ペテロは、聖書が何を告げているのかについて目が開かれていたのです。主イエスご自身が、『真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう』(ヨハネ14章26節)と語られたように、聖霊経験とは聖書に対して目が開かれるよう導かれるものなのです。聖書のみことばに伴う聖霊の導きを喜び、それに従い、神と人の前に謙遜で正直に生きているかが問われます。
Ⅱ.キリストについて目が開かれる 22〜36節
続いてペテロは、聖霊とイエスとの関係を明らかにしながら聖霊降臨の理由を説明しています。そこには、壮大とも言えるキリスト論が展開されています。
『このイエス』の十字架と復活と昇天のゆえに(22,24,32,36節)、聖霊降臨が実現したことを証言しています(33節)。その出来事は、旧約聖書の預言の成就であり(25〜28節、詩篇16篇8〜11節)、またイエスがキリストであることを論証しているのです(29〜36節、詩篇110篇1節)。このように聖霊は、イエスの十字架と復活と昇天の結果として注がれたのであり、イエスが『主またキリストとして』立てられたことの証拠であることを明らかにされたのです。
ペテロを始めとする弟子たちは、三年余イエスと共に生活しましたが、真の意味でイエスがどういうお方であるか分からなかったのです。しかし、ペンテコステ後に見られる弟子たちの力強いキリスト証言はどうでしょう。たといイエスと起居を共にしていても、聖霊によらなければ「イエスは主です」と告白できません。聖霊による『わたしは常に目の前に主を見た』という鮮やかなキリスト体験を通してこそ、キリストの証人とならせていただけるのです。
私たち一人ひとりが、聖霊を信じ、みことばに聴き従うことをさせていただくなら、心の深みまで新たにされ、聖霊の恵みの源となって用いていただけるのです。
(説教者:柏原教会牧師 川原崎晃)