柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「世に勝つ勝利の信仰」   Ⅰヨハネ5章1〜5節

 本日わたしたちが聴こうとしておりますみ言葉は、第一ヨハネ5章のみ言葉です。実は、本日はペンテコステを前にした大切な週ですので、ペンテコステにふさわしいみ言葉を、とも考えました。しかし、み言葉の思い巡らしの中で、ある意味でこの箇所はそれにふさわしい箇所のひとつであるとも考えるようになりました。それは後にわかるであろうとも思いますが、この箇所よりご一緒に考えてみたいと思うのです。
 この箇所には二つのメッセージが隠されているといわれています。それは、

Ⅰ.この箇所が述べている信仰の「内容」
 よく日本人は、「魚の頭も信心から」といいまして、魚でも何でも信じていればご利益が与えられる、といったような考えをします。「念じれば道が開ける」ともいわれます。そこには信仰の内容は問われません。何を信じていようが信じることが尊いという考えでしょう。しかし、本当にそうでしょうか。信じるということは漠然としているというようなことではないと思います。何を信じているか、そのことが問われているのではないかと思うのです。それは、この箇所から言うと、「イエスのキリストであることを信じる」(1)信仰、「イエスを神の子と信じる」(5)信仰であるということができます。イエスを神の子、まことの神と信じる信仰のことです。あのナザレのイエスがわたしたちの救い主であるということなのです。神の救いが、わたしたちと同じ顔かたちをとられて、イエスという存在として現れた、ということなのです。
 信仰の長い方にとって、「3章16節」というと、あのヨハネ福音書3章16節がすぐに頭に浮かぶことでしょう。しかし、この第一ヨハネの中には「もう1つの3章16節」とも呼べる箇所があるのです。「主はわたしたちのためにいのちを捨ててくださった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。」わたしたちは、このようにまことの人イエスとなってくださったお方がおられたからこそ、そして、そのお方が人として罪以外はすべての点においてわたしたちと同じ試みに会われたからこそ、そして人として神からただ一人捨てられて、十字架で死に渡されて下さったからこそ今のわたしたちがあるのです。そのことを感謝しましょう。


Ⅱ.信仰の結果としての「勝利」
 このような信仰を持っている者の結果は「勝利」以外の何ものでもありません。もちろんこの「勝利」の背景には「戦い」があることは明らかです。この信仰を信じるものにはもれなく「戦い」がついてくるのです。しかしそれは「勝利」が約束されている戦いです。
 ヨハネがこの手紙を書いた頃は、「イエスは主である」という告白は、即当局者からの迫害の対象とされるという外からの戦いがありました。また、「イエスは人であって神ではない」という、いわゆる「異端」、教会内における戦いも熾烈を極めていた時代です。このような時代の只中にあって「イエスは主である」という告白は、並大抵のことではなかったであろうと思うのです。しかし、彼らは大胆にこの告白をしたのです。それは、その背後に聖霊がおられたからです。聖霊がその告白をさせたのです。背後に聖霊がおられる戦いは「勝利」以外の結果は生じないのです。人間の力、人間の告白、自分の‥、という「肉」の行いや告白は、しばしば「敗北」という結果を生じさせ、時には落胆し、時には高ぶり、時には破滅へと至るものです。しかし、「私たちの主であり救い主であるイエスを信じる信仰」は聖霊によってのみ生まれるものであり、そのもたらすところは勝利なのです。
 ペンテコステを前にしたこのとき、わたしたちを「イエスはキリストである」という告白へと至らせ、またわたしたちを勝利へと導いてくださる聖霊を待ち望み、ペンテコステの礼拝にはこの一週間の勝利の証しを携えて礼拝に集いたいものです。


                  (説教者:西大和キリスト教会牧師 宮沢 清志)