柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「人生一筋に」 テモテへの第2の手紙4章6〜8節

「人は、願望の中に生きるのではなく、希望の中に生きる」と言われるが、キリスト者にとっては、究極の希望であるキリストに結び合わされて、過去は感謝、現在は平安、将来は信頼に生きるのである。

 本日の聖書の箇所は、『わたしは』と、ローマの獄中の中で自らが世を去る時が近づいたことを直感していたパウロが、どういう確信を持ってそこを乗り越えていったかを告白しているのである。このことを通して、今日も困難や問題を抱えている者が、どのようにしてそれを乗り越えていけばよいのかを語り、また励ましているのである。
 

1.過去は感謝 7節
 獄中でひとり過ごすパウロが、過去を振り返って、「やり残した、もっと長生きして主と教会と人々に仕えることがある」と言っているのではない。復活のキリストに出会って救いにあずかってキリスト者生涯が始まった「あの時」から今日に至るまで約30数年間、「わたしはずっと戦い続け、戦い抜き、走り抜き、信仰を守り抜いてきた」と告白しているのである。しかも、自分で作り出した戦い・行程・信仰ではなくて、「主イエスから与えられた福音のための戦いを戦い抜き、主イエスから与えられたように使命と奉仕のコースを走り抜き、主イエスから与えられた信仰をそのまま守ってきた」と言い表しているのである。こうした意味において、信仰とその歩みは、自然に保っていけるというのではなくて、恵みの中にあって努めていくものなのである。
 自分の過去を振り返って回顧するとき、「計画どおりではなかった、予定外であった、失敗ではなかったか、思うように行かなかった。しかし、神が与えてくださった信仰の道程と戦いは間違いがなかった」と言い得るのは、主のあわれみのゆえである。
 「主のあわれみによって、新しい年をいただき、感謝で一杯です。みこころならば、これからの一日一日、主の御用のために生きる者とならせていただけますように」との年賀のあいさつこそ、主イエスから与えられた信仰の戦いを戦い抜き、その道程を走り抜き、信仰を守り抜いていることの証ではないだろうか。


2.現在は平安 6節
 「いつ主イエスからお召しがあっても、それが殉教という形であっても、そちらに行くことのできる用意が万端できている」との、現在における平安な姿がここにある。『去る』とは、羊飼いたちが「テントの紐をゆるめて」他の牧草地に連れて行く、船の「とも綱を解いて」出航する、という意味を持つ言葉である。ちょうど、心穏やかに隣の部屋に移るように、この世を去って永遠の主の御許に行くという、揺るがすことのできない平安がパウロの魂と心を支配していたのである。
 パウロがその生涯において、絶えず持ち合わせていた信仰者としての資質は、「情熱」(1〜5節)と「危機感」(6節)であった。今日の教会と信仰者に欠けているのが、この「危機感の中にあっての平安」ではないだろうか―――!


3.将来は信頼 8節
 将来に対しては、捕らえられてお先真っ暗だというのではない。生涯を回顧しつつ、来るべき天の御国に思いを馳せている(18節)。「競技の勝利者が月桂樹の冠が送られるように、信仰の道程を走り抜いた者に、今や残っているのはただ、義の冠(栄冠)をいただくのみである」との希望に溢れている。これは、すでに信仰によって義とされた者が、そうされた者にふさわしい義のわざに対する報酬としての冠が神によって用意されているので、主の再臨の時に『公平な審判者』によって「わたしに」授けてくださるという栄誉である。
 それは、パウロと同様に、最後まで真実な主の御前に忠実に信仰の道程を全うした私たちにも授けられる共通の相続物である。とも綱を解いて出航、やがては船は視界から消えていくのは、寂しさが支配する。しかし、向こう岸に立つ人々は歓呼の声をあげて迎える。その人々こそ、アブラハム、エリヤ、イザヤ、ペテロ、パウロ―――、信仰をもって召された聖徒たちではないか。
 このようなキリスト者の過去・現在・将来に生かされてこそ、孤独にも勝ち抜き、全力を注いで主のわざに励むことができるのである。

(柏原教会牧師 川原崎 晃)