柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「真の神に立ち返る」使徒17章24~31節

パウロの伝道は、同族のユダヤ人から更にはマケドニア(ギリシャ)人の叫びを聞き、全世界へと進んでいきます。ここでは、当時の文化の中心地でもあったギリシャアテネでの伝道が記されています。
アテネギリシャ文明の中心であり、22 節のアレオパゴスは、評議所―裁判が行われた所で行政の中心地でもありました。そのところで彼はイエス・キリストを伝えたのです。
1,天地創造の神
ギリシャには皆さんも知っておられるギリシャ神話があります。3000 くらいの神々があるとも言われています。中には「知られていない神」もあるのです。そのところから、パウロは天地を造られた創造の神を語りました。すべての物を造られたのですから、人間が造った宮に住む必要はありません。また人の世話になる必要もないのです。
それどころか、土から一人の人アダムを造られ、いのちと息を吹き込み、その子孫たちを全地に、またそれぞれの時代に住まわせておられるのです。なぜ人間を造られたのか。パウロは「神を求めさせるため」と言っています。
八木重吉というクリスチャン詩人は「あかんぼうは なぜ あん あん … なくのだろう
か … かみさまをよんでいるんだよ」と詩を書きましたが、人間には不思議にも神様を求
める心があるのです。私たちも絶体絶命の時「神様!」と叫ぶのではないでしょうか。

 

2,近くにおられる神
神は遠くにはおられません。むしろ私たちの近くにおられます。そのことに私たちは気付いていないのです。神は確かにおられます。私たちのうちに求めがあれば、神を見いだすことができるのです。ただ私たちは神を求めていないだけなのです。
神はアダムの時代から人を求めています。アダムがエバとともに、神様にそむいて、食べてはいけない木の実を採って食べ、罪を犯して以来「アダムよ、どこにいるのか」と私たちを捜し求めておられるのです。
ルカ15章に出てくる、迷子の羊や失われた銀貨、そして放蕩息子の話は、実は神様が私たちを訪ね求めて捜しておられることをイエス様は語られたのです。
パウロは2人のギリシャ詩人の詩を引用して「神の中に生き、」「神の子孫である」と語っていますが、汎神論や生まれながらに神の子であるとパウロは言っているのではありません。真の神は近くにおられる、しかも金や銀や石で人間が作ったものは真の神ではないのだ、と語っています。それでは私たちはどのようにして真の神を知ることができるのでしょうか。

 

3,悔い改めて信じる
パウロもかつては、真の神が解りませんでした。彼は聖書の律法学者であり道徳ではパリサイ人でした。だれよりも神をよく知っているに違いないと思いわれていたのです。しかし彼は実際には、神が解らず、苦悩と暴力の中に、もがき苦しんでいたのです。本当の心の平安もそして喜びもありませんでした。
では、どうして彼は真の神を信じることができたのでしょうか。それは、復活のイエスに会ったからです。十字架に架けられ死の中からよみがえられた復活の主にお会いしたのです。彼は悔い改めて、イエスを主と信じ、キリストの下僕となりました。それによって彼は罪の赦し、平安と喜びが心の中にわき上がるように与えられたのです。
その喜びの故にイエス・キリストを伝えました。ユダヤ人にそしてギリシャ人やローマ人、あらゆる人にキリストを伝える人となったのです。
彼は大胆にキリストの復活を語り、真の神様はすべての人に信仰の確証をお与えになったと証ししました。確証(ピスティス)は信仰とも保証とも訳せます。それを神様は私たちに与えて下さるのです。
実に私たちは、イエス・キリストを信じる信仰によって救われるのです。
聖書を通してキリストに会うことができます。聖書を読むと真の神様は私たちを愛するために造られ蛸とがわかります。そして、本当に身近に私たちの生活の中におられるのです。私たちは悔い改めて立ち返るなら、神様は私たちに信仰の確証を与えて下さいます。

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)