柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「罪の結末」ローマ6章23節

自分は幸福になりたい、だれもがそう思います。しかし、現実には自分が幸福だと思って生活している人は少ないかも知れません。
幸福とは何でしょうか。「青い鳥」という童話がありますが、二人の兄弟はあちこち探し求めますが、結局はかごの中にあったという話しです。求めるけれども得られないのがこの世の幸福かも知れません。
幸せとは、お金があること、病気にならない、家庭が円満だとほとんどの人は思っていますが、それがいつもあるとは限らないのです。病気になったり、貧乏になったり、家庭不和になることもあります。
しかし、聖書は、本当の幸せは、お金でも、健康でも、家庭でもない。満ちあふれるいのちにある。永遠のいのちこそが、幸せの基であると言っています。
そして、それと反対にあるのが、死です。死こそが、不幸の最大の原因であると聖書は言っています。


1,肉体の死

バスの事故がありました。12人の若者が犠牲になりました。死ほどつらいものはありません。それで人生が終わるのです。これから社会に羽ばたいていこう、希望をもって将来に進もうと彼らは思っていたでしょうか。また、家族も期待していたに違いありません。しかし、一瞬にして夢は奪われました。将来も何もかも、無くなってしまったのです。死こそが、最大の幸福の敵なのです。


2,心の死

人間の死は、肉体だけではありません。私たちには心があります。肉体は生きているけど、心が死んでいる。「生ける屍」という言葉がありますが、聖書から来ているそうです「生きているといっても死んだ者である」と言われています。
人間は、決して一人では生きていけない者です。必ず人の世話になります。また、私たちはほかの人の世話をする必要もあります。決して勝手に生きてはいけないのです。
しかし、私たちは自分勝手なことがあります。自分がしたいからする。何が悪いと言って、迷惑をかける人もあるのです。その原因が、「罪」という言葉にあります。罪とは、的外れという意味です。聖書では、人は神によって造られ、神によって愛されて生きる者であったのが、離れてしまい自分勝手に生きる者となり、滅びに向かっていると言っています。心が神様から離れると、自分勝手になり、また人の心がわからず、孤独になり、苦しむ場合があるのです。この言葉を書いたパウロも悩みました。「自分のしていることがわからない。よいことが出来ないで、悪いことをしている。なんて惨めな人間だ」と苦しんだのです。


3,永遠の死

聖書の後ろに黙示録があります。人類の歴史の最後が記されています。もちろん死のことも出ています。私たちは肉体の死で終わるのではなく、その後神様の前に出されて裁きを受け、しかも、罪に定められるなら火と硫黄の燃えさかる池に投げ込まれることが記されてあります。cf.交通違反、一旦停止、徐行していたけれど留められて、罰金を払うことになった。少しでも見逃されない。まして、神様は、私たちの悪を見逃される方ではない。公平に裁かれる方です。


4,永遠のいのち

私たちの本当の幸せは、健康やお金、家庭だけではありません。むしろ、死の原因となっている罪の解決が必要なのです。空しい心に愛が必要です。そして、すべての人は死ぬのですが、その後火の燃えさかる池に投げ込まれるのではなく、悲しみも苦しみもない天国に入ることです。
どうすれば天国には入れるでしょうか。それは、キリストを信じることです。キリストは私たちを罪から救うために、来て下さいました。罪の支払うその死を、私たちの代わりに受けられて身代わりとなられたのです。これほど大きな愛はありません。そして、私たちに永遠のいのちを約束して下さいました。
その証拠として、復活されたのです。そのことを信じるなら、私たちは、罪が赦され、永遠のいのちが与えられ、自分は神様に愛されているんだ、生かされているんだと信じて生きることが出来るのです。私たちも、空しい生き方から、愛に満たされた、いのちに溢れる生き方をさせて頂きましょう。



           (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)