柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「いのちの光を持つ」ヨハネ8章7-12節

今日はシュロの日の礼拝です。イエス・キリストがロバの子に乗ってエルサレムに入城された日です。多くの人たちは、ホザナ、ホザナとシュロの木の枝を取ってきて敷きイエス様を歓迎しました。
 イエス・キリストは何のために来られたのか、それは今日の聖書の箇所が明らかにしています。


1,罪の赦し

まず第一のことは、罪の赦しです。一人の女が姦淫の罪を犯したといって捕らえられてきました。訴えてきたのは律法学者やパリサイ人でした。彼らは、律法を守り正しい生活をしている人々だと思われていました。
彼らは、姦淫の罪を犯した女を連れてきたのですが、それではなぜもう一人男を連れて来なかったのでしょうか。彼らは本当に正しいことをしていたのでしょうか。そうではありません。彼らの目的は、イエス様を訴えて、亡き者にしようと考えていたのです。彼らの考えや行動は全く正しいものではなかったのです。むしろ、彼らこそ罪深い人たちだったのです。
彼らの訴えに対して、イエス様は何も答えられませんでした。しかし、彼らがしつこく問いただすのでイエス様は一言だけ、尋ねられました「罪のないものが、最初に石を投げなさい」と言われたのです。
それを聞いて、年長者から出て行き、誰もいなくなりました。なぜでしょうか。ローマ3:23に「すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、」とあるとおりです。正しい人は一人もいません。律法学者やパリサイ人もイエス様を罠にはめようとした、栄光を受けられなくなっていた人たちだったのです。
ですから、私たちも神の栄光すなわち、心の輝き喜びが与えられるように、新しくしていただかなければなりません。
すべての人は、去っていきました。そこに残っていたのは、イエス様と訴えられた女だけでした。その女も逃げることはできたでしょう。しかし、逃げなかったのです。なぜでしょうか。それは、彼女が自分が罪深いものであるとわかっていたのではないかと思います。もう逃げ場所がない。行く当てがない。
不思議なことですが、聖書を見るとイエス様の周りには病気の人や、身体の不自由な人、悪霊に取りつかれたもの、死にかかっている人、そうした人が沢山イエス様の元に来ているのです。そして、イエス様は彼らの病をいやし、悪霊を追い出され、死人を生き返らせました。また空しい生活をしていたサマリヤの女(ヨハネ4章)に新しいいのち―生活を与えられました。おそらく、この姦淫の罪を犯した女ももうこれ以上どうすることもできない。そんな思いでイエス様のもとにたたずんでいたのではないでしょうか。
エス様は「あなたを罪に定める者はいないか」と尋ねられました。「誰もいません」と彼女は答えました。そして、イエス様は「私もあなたを罪に定めない」と罪の赦しを宣告されたのです。それは、神にしかできないことです。人間には、罪を赦す権威はありません。しかし、神様なら赦すことができるのです。イエス・キリストはまさに神であり救い主です。


2,いのちの光が与えられる

罪の赦しと、もう一つ大切なことは、いのちが与えられることです。イエス・キリストは私たちに、いのちの光を与えると言われました。暗闇の世を生きるためには、光が必要です。しかし、懐中電灯でも電池が切れれば暗くなります。この世のものは永遠ではありません。しかし、イエス・キリストこそ、いのちの光なのです。イエス・キリストを私たちの心に受け入れるなら心は明るくなります。そして、その光は永遠に消えないのです。
イエス・キリストは私に従ってきなさいと招いておられます。キリストに従うなら、闇の中を歩くことがなく、いのちの光を心にいただき、輝き続けることができるのです。


        (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)