柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「罪からのきよめ」1ヨハネ1章7節

来週からアドベント(待降節)クリスマスを待ち望む時となります。あちこちでもクリスマスのイルミネーションが飾られます。一つのことは、光が私たちに希望を与える象徴でもあるからです。
キリストはまさに希望の光としてこの世に来られました。弟子のヨハネはそのことを明確に語っています。キリストは人の光であるとヨハネ福音書1章で語っています。彼は最後まで生きた弟子でしたが、このいのちの光であるキリストを信じて困難を乗り越えてきました。私たちもその光を内にいただくことができるのです。
ところがその光を遮るものがあります。それは、聖書で言うところの罪です。聖書の罪は単に犯罪のことだけではありません。悪を行い、心を暗くするそれが罪の正体です。また、別の言葉で言うなら罪悪感です。心の中で、悪いことをしてしまった。後悔することです。それがいつまでも、心の中にあって自分を悩ませ、苦しめる。それが罪の正体であるということです。 ヨハネも悩みました。彼は短気でした。すぐに腹を立てる。人を出し抜いて、自分が得をする。まさに、自己中心で愛のない人であったのです。
しかし、彼は人生が変わりました。イエス・キリストによって性格が変えられたのです。彼は、晩年、愛の使徒と呼ばれました。おそらく他の人に愛情深く接したからでしょうか。彼は新しいいのちを受けたのです。この手紙の最初のところにも、いのちと出ています。そして、福音書ではそれを光といっています。実はどちらも同じです。イエス・キリストのことを指しているのです。
イエス・キリストは、私たちにいのちと光を同時に与えてくださいます。それは、ヨハネ8章に出て来ます。そこには、姦淫の罪を犯して捕らえられた女が出て来ます。姦淫の罪を犯した者は石で打ち殺されなければならない、と律法にあるのです。その女がイエス様の前に連れて来られたとき、イエス様は、まず罪のないものから石を投げなさいと言われました。老人から大人、子どもに至るまでみんな去って行ったのです。罪を犯していたのは、その女だけではなかったのです。
私たちも例外ではありません。罪があります。欲に引かれて罪を犯すことがあります。人のものを盗んだり、とってごまかしたり、嘘をついたり、腹を立てて人をののしったり、蔑んだり、それらはすべて罪です。罪を犯すと心の中に罪悪感が残ります。気持ちの良いものではありません。
それは取り除かれない限り、自分の悩みとなってずうっと残ってしまうものです。どうすれば、解決出来るのでしょうか。罪が心から取り除かれない限り、心の平安や喜びはありません。一生涯苦しまなければならないのです。
私たちは、心の中から罪悪感や負い目、悩みが取り除かれているでしょうか。心が明るくなっているでしょうか。もし、心が暗いなら、明るくしていただく必要があります。心が罪で汚れてしまったなら、どのようにして綺麗にすることができるでしょうか。
私は山でキャンプをしたことがあります。テントを張り、夜はランプをつけました。そのランプもすすで暗くなり、掃除をする必要がありました。水で洗っても綺麗にならない、しかし、ある人から葉っぱを揉みほぐして擦ると取れると言われ、そうするとすすが綺麗に取れたのです。夜、ランプつけると非常に明るくなりました。
心の罪はどうすれば取り除くことができるのでしょうか。御子イエスの血とあります。それは、十字架でながされた血潮です。私たちの罪のためにながされた、十字架の血潮は私たちをきよめることができます。
イエス・キリストは、十字架の血潮で私たちの罪を赦し、十字架の血潮によって私たちの罪咎を洗い流し、きよくし、私たちを喜びに輝かせて下さるのです。


                  (宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)