柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

天国の門は狭い」ルカ13章22-25節

今、春満開の季節となりました。桜がきれいに咲いています。ずっと咲いていれば良いのですが、やがて散るときがあります。私たちのこの世の人生も、必ず終わりの時があります。しかし、聖書は私たちに、新しいいのち、素晴らしい天国の門があることを私たちに教えています。


1,狭い門から入る

狭い門という言葉が出て来ます。一般には、よく受験のときに使われる言葉です。また、小説でもアンドレ・ジッドの「狭き門」というのがあります。聖書の言葉から取られたそうです。
天国の門は、大きいとは聖書にはありません。むしろ、狭いと言っています。マタイ7章では、狭い門と広い門が出て来ますが、ここでは一つだけです。大きさが問題ではありません。むしろ、その前についている「努力して」という言葉が鍵となるのです。「苦闘する」という意味の言葉です。英語の「苦しみ」という言葉の語源になっている言葉です。
 天国に入るためには、どんな苦闘があるのでしょうか。むしろ、救い主イエス・キリストは「すべて重荷をおうて苦労しているものは私のもとに来なさい。あなた方をやすませてあげよう」と言われているのになぜ苦しむ必要があるのでしょうか。
実は、私たちは天国の門に入るためには、苦しみもあるということを知らなければなりません。自覚する必要があるのです。努力して、ついに入ることができるのです。
神様が私たちに与えて下さるのは、まさに狭き門であり、見いだす人は少ないのです。以前に、金持ちの青年がイエス様の所に来て、どうすれば永遠のいのちを得ることができるのかと質問しに来ました。イエス様は持ち物をすべて売って、わたしについて来なさいと言われましたが、彼は顔を曇らせて去っていきました。ある意味では、それほど難しいことであるのです。捨てることができない。そこに問題があるのです。捨てるに捨てられないものが私たちにあります。
教会でやった劇があります。天国の門、高ぶり帽をかぶった人が、帽子がつっかえて入れませんでした。しかし、それを捨てると入れたのです。威張り棒を持った人も入れませんでした。しかし、それを捨てたら入れました。そして、へりくつを履いて入れない人がいましたが、そのへりくつを脱いだら入れたのです。私たちには、捨てなければならないプライドがあります。それを捨てるのに努力―苦闘しなければならないのです。自我の葛藤があるのです。自分を捨てられないのです。
そして、わかることが一つだけあります。自分でできないと言うことです。私たちは自分で自分を変えることも、自分を救うこともできないのです。ですから、私たちには救い主が必要であることが、「努力して」わかるのです。ですから、それを知るために、「努力」するのです。苦しまなければならないのです。


2,狭い門はイエス・キリスト

狭い門はいつまでも開いているとは限りません。やがて閉まるときがあるのです。聖書はそのことを私たちに注意しています。それは、いつ地震が来るかわからないくらいに、必然的なものです。大事なことは、「あなたがたが…私は知らない」と言われないようにすることです。
信仰とは、困ったときの神頼みではありません。御利益信仰が信仰のすべてではありません。むしろ信仰とは、交わりです。神様との人格的な交わりです。結婚としてたとえられています。私たちはキリストの花嫁なのです。
そして、イエス様こそが、救いの門です(ヨハネ10:9)。その狭き門を見いだして、中に入る人が救われるのです。是非一生懸命、捜し出し、救いの門から入って安息と牧草に与るものとさせていただきましょう。


         (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)