柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「祈りの家」マタイ21章12-14節

ここはイエス様が十字架にかけられるエルサレムに入城され、宮すなわち神の神殿に入られたときの出来事です。神殿の中庭にいた両替人や、鳩を売る者たちを追い出されました。それは、過去の出来事ではなく私たち自身が神の前でどうあるべきかを教えられるものです。


,神殿(教会)の本来の目的

エルサレム嘆きの壁があります。その先を行ったところにイスラム教のモスクが建っています。おそらくそこは神殿が建っていたところであろうといわれている場所です。
今のところ神殿が再建される可能性は低いのですが、聖書によるならば、私たち自身が神の神殿なのです。「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」(?コリ 3:16)
ですから、エルサレムの神殿再建よりむしろ私たち自身が神の宮として、神の聖霊が内におられるのに相応しく私たちの内側が整えられる必要があります。
そして、神様の望まれているところは「祈りの家」となることです。そのことは預言者イザヤが「わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。」(イザヤ56:7)と語っています。
私たち自身が、神の祈りの家―すなわち、熱心に祈ること、祈りを神様にささげるとなることを願っておられるのです。そして、私たちの集まる教会も「祈りの家」となることを神様は願っておられることでしょう。
そういう意味において、私たちはさらに祈る者、祈りを神様にささげる者になりたいものです。


2,聖別される

祈りの家となるために、私たちの心の中に必要なことがあります。それは、私たち自身が聖別されるということです。
この箇所は、「宮きよめ」と呼ばれる大切なところです。神殿の庭になんと両替人や、鳩を売る者たちがいました。なぜいたのかというと、神殿に来る人たちの便宜を図るものでした。神殿に来るとき、贖いのささげ物―献金をしました。当時、世界中の人たちが来ていたので、神殿で使えるお金に換える必要がありました。ところが、それを神殿の中で行ったのです。許されることではありませんでした。そして、自分の罪のために贖いのささげ物―鳩を犠牲としてささげることがありました。それもまた、神殿の庭で売られていたのです。そのことも許されることではなかったのです。
むしろ、犠牲は犠牲としてささげられるところに意味があります。その苦労をすることを通して、罪が赦されることが意味がわかりますし、神様にささげる犠牲としての意味があるのです。しかし、当時の人たちは神の前に謙遜ではありませんでした。当然、神を畏れるということも薄らいでいました。それは、形だけの信仰であり、聖所のシェケルを納めることやいけにえの鳩をささげることは、もはや形だけの宗教行事でしかなかったのです。
不正な利得を貪っていた人々をイエス様は神殿から追い出されました。実際彼らは、それで沢山もうけていたのです。神殿を管理している大祭司たちと一緒になって商売をしていました。まさにそれは「強盗の巣」になっていました。イエス様はそれを怒られ、台や腰掛けを倒して彼らを追い出されたのです。
私たちの心の状態はどうでしょうか。神様が第一となり、神様が最も願っていることを行っているでしょうか。それとも、自分の利益を第一に求めているのでしょうか。
エス様とは別のもう一人の助け主―聖霊様が私たちの心のうちを点検して下さり、いける神の宮として相応しくないものを示して下さり、心のうちから出すように導いて下さいます。私たちもまた聖別される必要があるのです。


3,神のあわれみ

ところがここでもう一つ不思議なことが出てきます。それは盲人や足のなえた人たちが、宮の中でイエス様に近づいて来たことです。実は、足のなえたもの目の不自由な盲人は宮の中に入ってはいけなかったのです(?サムエル5:8)。ところがイエス様は彼らを追い出されませんでした。それどころか、彼らをいやされたのです。驚くべきことです。それは神のあわれみです。神様は、自己中心的な傲慢なものは追い出されますが、不自由で弱い、また自分の力でどうすることもできない者を深くあわれんで下さる方です。イエス様は以前「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ9:13 )と言われました。
今私たちが神様の御前にささげるのは全焼のいけにえではなく、私たち自身の心です。イエス様は足のなえた人たち、盲人にあわれみを示されました。私たちもまた、キリストのあわれみをいただき、弱い人たちにあわれみを示し、神に犠牲をささげる者でありたいと願います。

  
          (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)