柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「神の報い」ルカ6章33-36節

今日はこの聖書の箇所から、神の報いについて考えて見たいと思います。


1,人の報い

エス様はこの所で、神様の祝福を群衆に語られました。20節を見ると「貧しい者は幸いです」と山上の説教と同じような言葉もでてきます。しかし、ここは山ではなく17節でわかるように、「平地の説教」だったのです。しかし、この所でイエス様は父なる神様が与えて下さる豊かな恵みつまり、神様の報いを語られました。
まず最初に人の報いとはどんなものでしょうか。33節には「良いことをする者に、良いことをした」という言葉があります。他の人から良いことをしてもらえたから、そのお返しとして自分も良いことをしてあげる。それは、この世での常識であると思います。別の言葉で言うなら、人の恩に報いると言うことではないかと思います。
しかし、お互いに助けあう事は良いことですが、それがいつでもどんな状況でもできるかと言えばそうではありません。たとえば、自分に物がない病気で体が弱っている、それが長く続けば、返してあげたいと思っても返せないことがあるのです。もし、そんな状態に相手が陥ってることを知らないで、なんで自分に親切にしてくれないのかと疑いが心の中にでたり、相手に対する悪い思いや悪い感情が出てくるときがあります。
それが、人間関係を悪くするものになるのではないでしょうか。この世はまさに、ギブ・アンド・テイクの世の中です。自分がやって上げたら、その分は顧みを与えてもらいたいと思うのが私たちの心ではないかと思います。
しかし、イエス様は「貸した分を取り返すつもりなら、罪人たちでさえ 、罪人たちに貸しています」と言われました。罪人とは当時の収税人のことでしょう。彼らは、金儲けには抜け目のない人たちでした。貸したものは必ず取り返す。ときには、友情や人情も金のためには犠牲にしてしまうような人たちであったのです。しかし、そのように生きていくならおそらく、友だちを失ってしまうと思います。


2,神の報い

しかし、イエス様は35節で「敵を愛しなさい。彼らによくしてやりなさい。返してもらうことを考えずに貸してあげなさい」と言われました。それはまさに、友だちを得る秘訣ではないかと思います。自分に敵対するような人と仲良くなりたいなら、まず相手を愛することです。それは、私たちの意識をまず変えることです。
そして、たとえ相手に貸してあげるというものがあるとき、それは貸すと頭の中では考えずにプレゼントするんだと思うくらいの気持ちで貸してあげることです。そうしてしまえば、たとえ貸してあげた相手が返してくれなくても、腹は立たないだろうと思います。また怒りの感情に支配されなくても済むと思います。しかも信仰においては、実は神様がそれに対して豊かに報いて下さると、イエス様は約束されました。
父なる神様から受ける報いは素晴らしいとイエス様は言われます。なによりも、いと高き方の子どもとなれる、つまりは天におられる父なる神様の子どもになれると言うことです。
子どもは跡継ぎです。子どもとしての特権は財産を受け継ぐことにあります。とするなら、私たちが神の子となるということは天国の財産を受け継ぐ、相続すると言うことになるのです。天国の財産はいったいどれだけあるでしょうか。相当の資産であることは間違いありません。
それ以上に、神様からいただける大切なものがあります。それは「あわれみ」です。恩知らずの悪人に対しても父なる神様はあわれみ深いと言われました。私たちは、神様の報いを期待し,信じて待ち望みたいと思います。


3,あわれみ深くする

天の父はあわれみ深い方です。私たちの咎や罪、過ちをいっさい赦して下さる方です。
私たちが求められていることは、天の父のようにあわれみ深くあると言うことです。それは、簡単ではありません。私たちは、人の恩をも知らない者には腹を立てやすいです。すぐにカッとなってしまうと思います。どうすればあわれみ深くできるでしょうか。それは、心の中にイエス・キリストの十字架を思い起こすことです。父なる神様は、私たちを赦されました。ひとり子をも私たちの罪のいけにえとして献げるほどに、私たちを愛し赦して下さったのです。
その愛を思い出すときに、私たちは悪を行う人も赦すことができます。あわれみを与えることが可能になるのです。今は聖霊が働かれるときです。聖霊は私たちの心の中に働かれ、神様のあわれみを思い起こさせて下さいます。
私たちは、更に聖霊の助けによって神様の報い、罪人をもゆるされる赦しの恵みを豊かに与えていただきましょう。


            (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)