柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「神に献げる」ローマ12章1節

今年は柏原教会創立81周年を迎えます。英国より、ドローシー・エレン・ホーア先生が来られ、この地にイエス・キリストの救いを伝えるビジョンを持って来られました。当初八尾に伝道される予定でしたが、柏原の地で主にその働きを進められました。南の羽曳野古市藤井寺も伝道の範囲であり、教会学校も盛んで、古市の小学校で大運動会が催された写真もあります。特に、慰めの家を組織されて伝道を展開されたことは今の時代の宣教方策にも十分通用するものです。今日は「神に献げる」と題して、ローマ12:1より語りますが、ホーア先生ご自身がその身を日本に献げられて宣教されたと言っても過言ではないと思います。英国に帰ることなく、若くして日本で召天され、まさに神に献げる生涯を全うされました。


1,神のあわれみ

ローマ人の手紙の前半は教理的部分であり、後半はそれに対する実践部分であると言われています。
私たちが神を信じる最大の理由は、「神のあわれみ」であると言えます。神のあわれみの最大のものは何か、それは愛するひとり子イエス・キリストを私たちに与えて下さった「十字架の愛」と言うことです。ある子どもの沢山いる牧師夫人に一人あげたらどうですかと言われたとき、その夫人はあなたにとっては沢山いる内の一人かもしれないけど私にとってはかけがえのない一人ですと答えたそうです。それ以上に、ひとり子イエス・キリストは唯一無二の存在であるのです。そのひとり子を父なる神様は、私たちの罪を赦すために、罪人の手に渡され十字架にかけられたのです。これほど大きな愛は他にはありません。


2,神に献げる

パウロは私たちに、実際の礼拝として、自分の身を献げることを願っています。私たちは礼拝を受け身の形としてとらえてはいけません。むしろ積極的に自らを献げるものです。
アブラハムは100歳の時にひとり子イサクが与えられました。しかし、神様はモリヤの山で礼拝するように命ぜられました。その当時の礼拝は、全焼の犠牲(いけにえ)を献げることでした。それが礼拝であったのです。子羊を丸ごと焼いてけむりにして献げる、それが全焼の犠牲です。しかも神様は、イサクを献げよと命ぜられたのです。それに対して、アブラハムは信仰を持って答えました。神様にひとり子イサクを献げることを決心しました。その信仰の決心をしたのは、アブラハムだけではなかったのです。その息子イサクも同じ心でした。彼はおそらく二十歳前の青年であったでしょう。逃げることもできました。しかし、彼もまた信仰を持って従ったのです。
「霊的な礼拝」とありますが、霊的と訳されている言葉は「道理にかなった、理屈にあった」という意味です。別の言葉で言うなら、意義のある礼拝とでも言えるでしょうか。私たちの礼拝は、形式とか義務でするものではありません。ちゃんとした意味があります。それは神のあわれみの故である。十字架で私のために身代わりとなって死んで下さったイエス様に、死からよみがえられて私にもシャローム―平安あれと言って下さるイエス様を礼拝することです。非常に意味のあることです。それ以外に、理由はありません。イエス様が喜んで下さる礼拝を献げることです。
献げよといわれています。具体的に私たちは何を献げるでしょうか。感謝の祈りだけでも良いのです。神様は喜んで下さいます。また献金で感謝を献げることができます。やもめの女の人がレプタ2枚を献げました。イエス様は喜ばれました。有り余るものから献げたのではなく、持っていたすべてを献げたからです。私たちも感謝献金をするときは、喜んで惜しみなく献げたいと思います。救われた人が感謝献金について尋ねたとき、ある先生はこれくらい献げたら惜しいと思うくらいの献金を献げなさい。それが、神様に献げる感謝の献金です。と答えられたそうです。
神様は惜しみなく、私たちにイエス様を与えて下さいました。イエス様も喜んで十字架に死んで下さいました。私たちもまた、喜びと感謝をもって、それこそ自分自身を献げていくものとさせていただきましょう。


      (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)