柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「ホンモノの愛」1ヨハネ4章10節

今日はホンモノの愛と言うことでお話しします。この世の中には、ホンモノもあればニセモノもあります。私たちはニセモノにだまされることがあります。偽物と本物とどう違うかと言えば、本物にはそれだけの価値があるけど偽物はそうではありません。
愛にも本当の愛と偽物の愛があります。本当の愛とはどんなものか、第一コリント13章に詳しく出て来ます。結婚式の時でもよく読まれています。多くの人は、愛をもって結婚するのですが、破綻します。そこには本当の愛がなかったといえると思います。では本当の愛とはどんなものでしょうか。


1,積極的な愛

それは第一に、積極的な愛です。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し」とありますが、その愛というのは積極的な愛、自分の方から相手を愛するという愛です。
人間の愛は受け身の愛です。自分を愛してくれるから愛する。自分に親切にしてくれるから愛する。それは、条件付きの愛です。ですから、心の中にある愛が冷えてしまったら、またなくなってしまったら、愛せなくなるのです。人間の愛は、条件もあるし、制限もあるのです。しかし、神様の愛は無限の愛です。そして何の条件もありません。
簡単に言えば、太陽と月くらいに違うものです。月は変わります。満ち欠けがあります。太陽の光を反射して光っているのです。ですから、太陽の光を受けているときは輝いているし、地球の陰に入れば新月となり見えなくなります。ところが、太陽の光は陰ることはありません。いつも明るく輝いています。そして、周りを明るく照らします。月よりももっと強い光です。
そのように、神様の愛は、私たちの愛によって影響されません。私たちを愛すると言われるなら、太陽のようにいつも輝きすべてを照らし、明るくして下さるのです。


2,愛を隠すもの

ところが、この世は全部神様の愛で満ちているとは言えません。むしろ、愛どころか、恐ろしいこともいっぱいあります。ニュースを見ると、事件や事故のことが報道されています。どうして、悪いことが多くあるのでしょうか。
聖書を見ますと、罪と言う言葉が出て来ます。悪いことの原因は実は、その罪にあると言うことです。元々の罪はどこにあったでしょうか。創世記の3章にアダムとエバのことが出て来ます。神様は約束されました。どんな木の実をとって食べても良い、しかし園の中央にある木の実だけはとって食べてはならない。死んでしまうと言われたのです。しかし、アダムとエバは、自分の欲に負けとって食べました。それが罪の始まりです。私たちもまた、約束を破ることがあります。ウソをついたり、他の人のせいにしたり、言い訳をしたり、ごまかしたりします。それが罪なのです。そこには、喜びはありません。勝利もありません。心が暗くなり、重くなります。それは罪が原因となっているからです。ですから、私たちの心が、明るくなるために、軽くなり、喜びと感謝に満ちあふれるためには、解決が必要です。どうすれば、罪を心の中から取り除くことができるでしょうか。自分の力で、罪を解決することができますか。


3,罪を取り除く愛

ヨハネという人は、ここに愛があると言いました。どこに愛があるのでしょうか。実は、彼は神の大きな愛を実際に見ました。それは、十字架の上で神様の愛を見たのです。十字架の上でイエス様は磔になって血を流されました。しかし、その苦しみの中にでも、自分を磔にした人たちを赦し、また互いに愛することを言われました。
エス様は、言われただけでなく、愛を実行しまた、私たちの心の中に愛を現して下さいます。私たちは愛を完全に全うすることはできません。しかし、イエス様は私たちを愛するために、また罪の滅びから救うために、十字架に死んでくださったのです。イエス様の十字架を信じるとき、人には大きな愛の力が与えられて、困難を乗り越えていくことができるのです。
北海道に塩狩峠と言うところがあります。明治42年2月28日、列車の連結器が外れて最後尾の客車が峠の坂を下り脱線転覆しそうになりました。そのとき、長野政夫という青年が自分の身体をもって客車を止め、乗客の命を救ったのです。一人の人の死が、多くの人の命を救いました。ここに愛があるのです。


           (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)