柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「神に仕える力」 ゼカリヤ4:4〜9

ゼカリヤ書4:4〜9の中でも、特に6節の御言葉は私たちとって、大きな励ましです。それはここに私たちが、神様から祝福を受ける、つまり幸せになれる秘訣が語られているからです。
ゼカリヤとは預言者の名前です。彼は今から約2500年前にイスラエルで活躍した人です。イスラエルほど不思議な国はありません。ローマに滅ぼされ、さすらいの民となり、それが国を建てる、20世紀の奇跡とまで言われました。四国ほどの小さい国ですが、アラブ諸国に取り囲まれても決して負けてはいないのです。その力は、聖書の御言葉、神の約束から来ていると思います。
私たちも神の恵みに預かりたい、力が欲しいとすればどうするべきでしょうか。


1.人の力に頼らない。
6節を見ますと、ゼルバベルへの主の言葉とあります。ゼルバベルとは人の名前で、バビロン捕囚から解放され、イスラエルに帰ってきた人たちのリーダーでした。帰ってきたのは良かったのですが、もとのように生活することは大変でした。
町は破壊され、城壁も崩れ去り荒れ放題となっていました。そんな中で、まず神殿を再建することから始まりました。しかし、ことはうまく運びませんでした。
7節に大いなる山よ。おまえは何ものだ。とあります。大いなる山とは、困難を意味する言葉です。ゼルバベルが神殿を再建するには大きな困難がありました。それは、回りの異邦人が入ってきて妨害し、イスラエルの人たちが、やる気を失い、自分のことしか考えなかったのです。それでは、共に神様を礼拝し豊かな恵みに預かることはできなかったのです。それでゼルバベルは困りました。どうしょうか、権力にたのもうかと考えました。権力と言う言葉には、この世の富や軍隊と言った意味がありますが。ひと言で言うと集団の力です。
それに対して、能力は個人の力、力量といった意味です。ですから、神様は、集団の力も個人の力も当てにするな。それはなくても良い。と言われたのです。じゃあいったい私たちは何を当てにしたらいいのか。何が頼りにできるのか。そこが問題です。


2.神に依り頼む
神殿の再建は何によってできるのか。6節の終わりに、私の霊によってと神様は言われています。集団の力でもなければ個人の力量によってでもない。ただ神の霊によってできる。そう言われたのです。
「わたしの霊によって」それは神の御霊、聖霊に導かれる以外の何でもないのです。それによって私たちは、神の尊い救いに預かりました。神の愛がわかるものになったのです。それは、あの人が一生懸命教えてくれた、とか自分が勉強したから、神の愛がわかったと言うものではありません。それはまさに、霊によって新しく生まれるものです。
エス様はニコデモに話をされたとき、新しく生まれる、御霊によって生まれることを話されました。神の霊により私たちは新しく生きるものになります。
霊と訳されているヘブル語はルーアハと言う言葉が使われています。それは風とか、息とも訳される言葉です。ちなみに創世記2:7を見ますと、神はちりで人を造り、鼻にいのちの息を吹き込まれた。人は生きものとなった、とあります。人は神の息が入って生きたものとなるのです。
神の霊は人を活かします。活力を与えます。
ゼルバベルは、能力もあり賜物のある人でした。もちろん神を信じていました。しかし、それでも壁にぶち当たりました。やる気もなくなってきていました。神様は哀れに思い、預言者ゼカリヤを立て、ゼルバベルに、「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」と語られたのです。彼は信じました。全能の神を信じ、信仰をもって主に従ったのです。
9節で彼の手が完成する。そのように神様は約束されました。そして、以前にもまして荘厳な神殿が再建され、「イスラエルの民は喜び歌った。」とネヘミヤ記12:43に出ています。
私たちはどうでしょうか、この世に生きていて、この世に仕え、喜びが与えられるでしょうか。「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます。」( ?ヨハ 2:17)この世に仕えるのは空しいことです。むしろ神に仕える人生には喜びが与えられます。
そして、「これは権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」と言われる神に全てを委ね、困難を乗り越えさせていただきましょう。そして、今それぞれに与えられていることを完成させていただきましょう。


                    (説教者:柏原教会牧師 西本耕一)