柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「わたしたちは神の神殿」  第1コリント3:10-17

  聖書に「あなたがたは神の神殿である」と記されていますが、これは一体どういうことなのでしょうか。(口語訳では神の宮)

1.神殿
 それはひとりひとりが神の宮であると言うことと同時に、信じた者が、みな組み合わされて神の宮、神殿とされるのです。
 神殿では何をするのかといえば、それは神にお会いすることです。ですからわたしたちが神の御住まいであると言うことは、いつでも神にお会いすることができる生活が与えられたと言うことです。
 信仰者の生活と信仰を持たない人の生活との違いといえば、信仰者は神に会うことが出来る、神を礼拝する生活であると言うことです。
 信仰を持たない人々は、神のことを余り考えません。また仮に考えることがあっても、神に会うことを知りませんし、神に会いたいと願っても、どうすればお会いできるのか知りません。おそらくお会いできるとも思っていないでしょう。それに対して、信仰者は、いつでも神にお会いすることが出来るのです。
 人が、悲しみにつけ喜びにつけ、共に分かち合う人を求めるように、信仰者はいつでも神にお会いし、喜びも悲しみも神に語り、神と共に喜び、神から慰めを受けるのです。わたしたちが神殿であると言うことは、このように神と交わり、神を礼拝することが出来ると言うことです。

2.御霊が宿るところ
 しかし、本当にわたしたちは神殿なのでしょうか。力もなく、知恵も無く、失敗を繰り返しているようなわたしたちに、そのような資格があるのでしょうか。それについては、「神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか 16」と記されています。
「知らないのですか」と記されているくらいですから、自分たちが神の御住まいであると気づいていないこともあるのかも知れませんが、神の御霊は、すでにあなた方のうちに宿っているのだ、と言うのです。
 ではそのことをどうして確かめることが出来るのでしょうか。これは手で触ったり、目で見たり出来ることではありません。このことは、信仰によって知る以外にありません。神の御霊は感じるものではないからです。だから「知らないのか」と言われなければならないのでしょう。
 信仰の問題と言えば、キリストによって救われたと言うことも、目で見て確かめたわけではなく、信じているのですから、御霊がわたしたちの内に宿ってくださるということも、目で見て確かめることではなく信じることです。しかしこれは、勝手に思い込むことではなく、確信させられること、信じさせられることです。
 神の御霊は、神を信じさせてくださいます。神の御霊は、キリストを信じさせてくださり、救いの確信も与えてくださいました。信仰にかかわる全てのことは、御霊によって与えられているのです。ですから、信仰を持っているということは、神の御霊が宿って居られると言う何よりの確かな証拠なのです。
 わたしたちはまず、御霊が内に住んでくださる神の御住まいとされていることをしっかりと自覚し、これを喜びとしなければなりません。

 3.神殿を壊すなら
 では「神殿を壊すなら 17」とはどう言うことなのでしょうか。
 これは、信仰者の交わりである教会を破壊すると言うことであり、信仰者から信仰を奪うことでもあります。
 それにはまず、外からの力、すなわち迫害によって滅ぼすことがあると考えられます。それは教会と言う組織に対して起こることもあれば、個人に対して起こることも考えられます。この外部からの力は、神の御住まいとしての力、働きを失わせるために働いてくるのです。
 さらに外側だけでなく、内側からも壊そうとする試みがあるかも知れません。建物を壊すと言うことは目に見えて明らかですが、ここで神の神殿と言われているのは、教会の交わりであり、また信仰者そのものですから、見える形は変わらないかも知れませんが、その働きの力、信仰の力が奪われ、失われることもあり得ます。
 力を奪うと言いましたが、教会の力は何によって測られるのでしょうか。
それは真に神を礼拝する力を持っているかどうかで測られます。
 そしてこの礼拝を通して、そこに集う信徒の信仰が表われます。ですから単に教会と言う組織の問題でなく、ひとりひとりの信仰が問題となります。
それぞれに信仰を確立することが求められます。
 信仰生活と言うことは分かりにくいことですし、何をもって立派な信者と言えるのかということも難しいことですが、確かなことは、神を離れて信仰生活はあり得ないということです。そして、神がわたしたちの内に住んで下さるのは、神の神殿とするためです。神を礼拝し、神の栄光を表すためです。
 「あなたがたは神の賜物です 9」と言う言葉は、神がどれほどわたしたちのことを大切に思っていてくださるか、と言うことであり、また、わたしたちは神に会うことの出来る者とされていると言うことです。
 そして何よりも忘れてならないことは、神殿として組み合わされてこそ信仰生活があるのであって、自分ひとりの信仰生活はないと言うことです。ですから教会の交わり、教会生活を大切にしなければならないのです。
 要するに、神の建物、神の神殿と表現されていることの中には、二重の意味があって、一つには信仰者ひとりひとりを指していると同時に、二つ目には教会の交わりを指しているということです。そこから信仰者ひとりひとりの信仰による歩みを信仰生活といい、教会の交わりを教会生活と呼ぶ生き方が生じてくるのです。
 わたしたち一人ひとりが神殿であると共に、信仰者の交わりである教会もまた神の宮・神殿と呼ばれるのです。信仰を個人的なこととしないで、教会の交わりを大切にし、この交わりが破壊されないように、共に祈り成長しましょう。
              (説教者:柏原教会 協力牧師  岸本 望)