柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「慰めに満ちたる神」 第2コリント1:3-10

ここには「慰め」という言葉が多く出ています。3〜7節には10回出ています。それには理由があります。パウロの生涯においても、もしこの「慰め」がなかったら、伝道することもできなかったでしょうし、生きることすら困難だったかも知れません。
私たちもこの世では苦しみを覚えます。その救いに、も必要なものは何か、をご一緒に考えてみたいと思います。


1.慰めに満ちておられる神を知る。
3節に、パウロは慈愛の父、すべての慰めの神と誉め讃えています。それは彼の実感から出てきた言葉です。
彼はかつては、キリスト教の迫害者でした。その彼が、復活のキリストに会い人生が変わりました。しかし、すぐに他のクリスチャンたちに受け入れられませんでした。彼により苦しめられた人が多くいたからです。しかし、慰めの人バルナバを通し、パウロは受け入れられ、赦され、愛の交わりに入ることができたのです。それを彼は体験し、神を誉め讃えました。
4節を見ますと、パウロは神はどのような苦しみ時にも、慰めて下さる。と言っています。8節には、命が危うくなるほどの苦しみを受けたとあります。しかし、5節に、慰めもまたキリストによって溢れているとあります。慰めがキリストにより、豊かにあふれ出てくるのです。キリストの故に苦しむことがあるなら、キリスト御自身が慰めて下さるのです。6節の後を見るなら、苦難に耐え抜く力を与えると、神様は約束しておられます。実は「慰め」はパラクレーシスと言う言葉が使われており、それに類する言葉パラクレートスは「助け主」聖霊を指しています。(ヨハネ14:16)ですから、聖霊は慰め主であり、私たちを助けてくださる方です。その方により弟子たちは変わりました。私たちも、神様の慰めを得て、人を慰めることができるようになりのです。


2.望みを神におく。
パウロは耐えきれない試練に会い、死を覚悟したときどうしたでしょうか。9節で「もはや自分自身を頼まず、死者を甦らせてくださる神に依り頼む」と言っています。もはや自分を当てにしない、全能の神様にすべてを委ねることです。それが、パウロの信仰でした

私たちにも、それぞれにどうすることもできない危機的状況に陥る時があります。人の最大のピンチは、神の最高のチャンスのときです。その時にこそ、神に依り頼むなら、神の慰めと愛を体験することができます。パウロはその生き証人でした。彼は、キリストの迫害者からキリストの伝道者へ、人を苦しめるものから、人を慰めるものにと変わりました。私たちも、キリストを信じるとき、素晴らしい生涯に変えられます。
パウロは10節で、死の危険から救い出した下さった。将来も救い出して下さる。とはっきり言っています。
希望を神に置いている。それが、彼の生き様であり、慰めに満ちた人生を歩んだパウロの姿です。
私たちは、自分の希望をどこに置くでしょうか。
慰めと愛に満ちた神御自身に置くものとさせていただきましょう。

                           (説教者:柏原教会牧師 西本耕一)