1,主にあって喜ぶ
ここに「喜び」が 2 回出てきます。ピリピの手紙は喜びの手紙です。パウロは牢獄の中 にこの手紙を書きました。手紙を書いた彼自身が喜びに満ちていたのです。「いつも主にあって喜びなさい。」と彼は勧めましたが、彼自身がそうであったのです。なぜ喜ぶことができるのか。それは「主にあって」と言うことです。主にあって、主とはキリストです。キリストの愛に包まれて喜ぶことです。彼はまさに、牢獄の中にあっても心はキリストの愛に包まれている。それこそ赤ちゃんが、お母さんの腕の中に抱かれて喜んでいる姿を思わせられるものがあります。
そして、それは私たちにもできることです。信仰を働かせることにより、このみことば
を信じることによって、私たちは神の愛の中に生かされ、喜ぶことができるようになるのです。 その喜びが私たちの心に満ちるとき、心も寛容になれるのです。これは人間関係において言われることですが、寛容とは他人を受け入れることです。別の意味では赦すことができる。
イエス様は十字架の上で、自分を十字架につけた人たちを赦されました。それどこ
ろか、「彼らをおゆるし下さい」と父なる神様にとりなしの祈りをされたのです。キリストの寛容が私たちを救ったのです。キリストの十字架によって私の罪が赦された。そのことを信じるなら、ほかの人の罪をも私たちは赦すことができるのです。それがキリストから来る、キリストによって与えられる寛容ではないでしょうか。
ビクトル・ユーゴの「ああ無情」で司祭の家に泊まったジャン・バルジャンは銀の食器を盗み、警官に捕まりました。しかし司祭は何と「もう一つの燭台もあげたではないか。なんで持っていかなかったのか」と言ったのです。それが寛容なのです。その言葉によってジャン・バルジャンは変えられたのです。
「主は近いのです」とは、主が近くにおられます。と言うことと、キリストは再び来られる。二重の意味があります。
2,キリストによる守り
今は苦難のときです。私たちはどうすれば良いでしょうか。祈りです。祈りによって私
たちの心にある願いを神様に知っていただく事です。祈りは義務でも、習慣でもありません。むしろ私たちの内にある苦しみを、言いがたき嘆きを聖霊の助けをいただいて神様に知っていただく事です。ですから、戸を閉じてただ一人、神様に自分の願いを率直に言い表すことです。
そうするなら、必ず神様は私たちの理解を遙かに超えた方法を持って、神様の平安によ
って、そして十字架で死に復活されたイエス様によって、私たちをかならず守って下さいます。
この守とは、軍勢によって守られる意味があります。旧約聖書では、エリシャがアラム
の大軍に囲まれたとき、主に祈ると火の馬と戦車がエリシャを取り巻き山に満ちたのです (Ⅱ列王 6:17)。そして詩篇 34:7「主の使いは主を恐れる者の周りに陣を張り彼らを助け出 される」と約束があります。
私たちも主を信じ、どんな時にも喜び感謝し、そして思い煩いをことごとく神様に話し、神様によって守っていただきましょう。
(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)