柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「ヨセフの苦しみ」マタイ1章18-21節

クリスマスは私たちにとって大変楽しい時ですが、そのはじまりは決して楽なものではありませんでした。しかし、それこそ本当のクリスマスの意味を知ることが出来ます。この箇所にも神様の救いとクリスマスの喜びが表されています。

1,ヨセフの苦しみ
ここには明確な、キリストの誕生が記されています。キリストは架空の人物ではありません。はっきりと歴史の中に現れた人です。さらには特別な目的を持ってこの世に生まれた方です。 母はマリヤでした。ここにある通りです。ところが父ヨセフとは書いてありません。イエス様の父親はヨセフではなかったのです。マタイ1章にでてくる系図は、みんな父親の名前が記されています。しかし、イエス様の父親はヨセフではなく、聖霊によって身重になった、つまりは神によって生まれた神の子である、ということです。
しかし、この事は人間には理解できません。不可能な事でありますし、何よりもヨセフにとってはとんでもない迷惑でしかないことでした。なぜなら彼はまだ、マリヤとは婚約期間中であり、いわば正式に結婚する前の大切な時であったのです。ところが、マリヤが身ごもっていることがわかったのです。
それは、ある意味受け入れがたいことです。自分の子ではない、いったい誰の子どもかわからない。それは、ヨセフにとっては苦しみであったのです。
なぜなら、姦淫の罪を犯して身ごもった者は石で打ち殺されなければならない、と律法にあるからです。ヨセフは正しい人だったと聖書にあるのですが、それは単に道徳的に正しく真面目だったという意味ではなく、むしろ、神の律法に忠実な人であると言うことです。ですから、マリヤは罪を犯した、故に石打ちの刑にしなければならない、もし、憎んでいるなら可能だったかもしれない、しかし、そうは出来なかったのです。それはヨセフがマリヤを愛していた、それだけの理由です。愛するが故に、殺すことは出来ない。かといって、放っておいて解決するものではない。彼はまさに心の苦しみの中にいたのです。 そして彼は、内密にマリヤを去らせようと決心したのです。それは、人間的な手段であると思います。愛する者をさらし者にしたくはない、しかし、正式に結婚も出来ない、去らせるしかない、苦渋の決断でした。でも、それではたして心が晴れるのだろうか、本当にそれで自分の心に喜びが来るのだろうか、来ないと思います。おそらく、悔しさとやるせなさ、無力感に押しつぶされてしまうのではないだろうかと思います。


2,神の救い

しかし、そのところに神様の御業、奇跡が行われるのです。それは、御使いが夢に現れて、彼に成すべきことを告げたのです。それは、マリヤを妻として迎えると言うことです。これが最善の解決であると神様ははっきりと示されました。
そして、ヨセフはその通りに従ったのです。それが彼の信仰でした。祝福の第一歩だったのです。
私たちも、苦しみの中で決断しなければならないことがあります。その中にも神様は働かれます。私たちに示しを与えて下さる方です。
そして、生まれてくる子をイエスと名付けることが言われました。イエスとは旧約聖書ヨシュアで主の助けという意味です。その通りに、彼は主に助けられました。そして、その子は諸々の罪から信じる者を救って下さる方であると言われたのです。
罪とは、犯罪ではありません。神から離れていること、神に背を向けることそれが罪です。悩みのヨセフはどうだったのか。おそらく、神から離れる一歩手前の心境ではなかったかと思います。罪の姿は孤独であり、不安であり、恐れがあります。それが罪の一つの姿です。しかし、神様は私たちをそのような罪の姿から救って下さる方です。イエス・キリストは罪を取り除く神の子羊であり、孤独・不安・恐れ諸々の罪を取り除いて下さるのです。ですから、ヨセフはもう恐れませんでした。不安ではありませんでした。新たに決心してマリヤを迎え、その後子どもたちも与えられ、何よりも救い主がお生まれになったのです。



(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)