柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「愛の報い」マタイ5章38-41節

マタイ5章には、有名な山上の垂訓といわれる、イエス様が語られた幸いな人―幸福な人の姿が出て来ます。しかし、現実のこの世は幸いではありません。むしろ、利害関係の中に生きていると言えます。
そんな中で、私たちは幸せになれるでしょうか。私たちが幸せになるためにすべきことをイエス様は語られました。
旧約律法には、「目には目を、歯には歯を」と報復のことが記されていますが、はたして復讐をして問題は解決するのでしょうか。解決とはなりません。本当の解決は、神の愛にあることを教えられるのです。


1,侮辱されても恨まない。

「右のほおを打つ者に、左のほおも向けなさい」と有名な言葉が出て来ます。両方打たれると言うことですが、ユダヤでは特別な意味があります。左のほおを打たれることは侮辱を意味しています。右利きの人が相手の左のほおを打つのは手の甲で打つことになります。手のひらよりは力が弱くなります。弱い力で打ちつける、それは相手を侮辱することです。
エス様は、たとえ侮辱されることがあっても、手向かうだけではない。相手の侮辱をも積極的に受けて行きなさい、と言われるのです。そのようなことがはたして可能なのだろうか。どうすれば、人からの侮辱をも積極的に受けることが出来るのだろうかと思います。


2,権利を主張しない。

告訴して、下着を取ることが出ています。実際にあったようです。下着と言っても、今のパンツやシャツのようではなく、上からすっぽりかぶるような形のものであったようです。また、替えの下着も普通ありました。それを質草のように取ることはあったようです。ただし、上着は取ってはならないと律法にありました。それは、一つしかなく、また毛布のようにしっかりとして、暖を取るのに必要なものであったのです。ですから、それを質に取ることは許されませんでした。しかし、イエス様はそれをも与えなさい、自分の権利を放棄しなさいと言われたのです。この世では自分の権利を主張し、争ってでも奪うという人は大勢いると思います。イエス様はどうであったでしょうか。


3,強制を甘んじて受ける。

1ミリオンとは、1.5キロです。「強いる」の語源はペルシャ語の「走り使い」の語源から来ているとも言われます。古代ペルシャには飛脚制度があり、郵便物を運ぶときに、馬や食事・宿の提供を強制的にさせたようです。人々は渋々提供したようです。
エス様が十字架を担いで倒れられたとき、クレネ人シモンはしいて十字架を負わせられました。この語が使われています。彼も、十字架をローマ兵から強要されたのです。しかしそれは彼の大いなる栄誉とかれられたのです。のち、彼の息子アレキサンデルとルポスは教会の有力なクリスチャンとなり良い奉仕をしたのです。シモンにとっては、十字架を担ぐことは大いなる恥であったのですが、後に名誉となりました。
侮辱され、権利を主張せず、強制を快くうける、それは愛がなければ出来ないことです。しかも、自分の愛でそれが可能でしょうか。出来ません。一つだけ可能なことがあります。それは神様の愛を受けることです。父なる神様に愛される。そのことによって可能です。何よりもイエス様は愛に満たされた方でした。愛によって行動されたのです。そうでなければ、十字架で死ぬことは不可能です。私たちも可能なことがあります。それは聖霊によって神様の愛に満たされることです。
ステパノも、パウロもペテロも愛に満たされて、甘んじて侮辱を受け、権利を主張せず、強いられても喜んでいのちを差し出していったのです。彼らは、神の愛に拠って勝利しました。私たちもキリストによって、侮辱、権利、強制に勝利させていただきたいと思います。


                    (宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)