柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「祝福と平安の回復」エレミヤ33章1-9節

エレミヤは涙の預言者と言われています。なぜなら、彼の言うことを聞く人たちはなく、困難な道を歩まなければならなかったからです。しかし、彼の語ったことは真実であり、実際に彼が語った、いや神が彼を通して語られたことが実現したのです。

神様は懲らしめ滅ぼされる方ではありません。むしろ憐れみ、言葉をもって真実に導かれる方です。何よりも私たちは、エレミヤを通して語られる神の御言葉を聞き、神の祝福と平安に与りたいと思います。

1,エレミヤの苦しみ

エレミヤは1節を見ると、「監視の庭に閉じ込められていた」とあります。監視の庭とは、エルサレムの宮殿の中にあり、一般的な牢屋とはちがうものです。彼は元々祭司の子どもでした。ある意味、貴族のような立場にあり特権階級であったのです。ですから一般人が預言者となったより、この世的にはステイタスがあって、ある程度の身分が保障されていたのです。ですから監視の庭に閉じ込められることは、むしろ安全であり、かつある程度の自由があったようです。なぜなら、彼は彼を憎む者たちからいのちを狙われていました。確かに不自由な状態ではあったのですが、それもまた神の計画の中にあったことであろうと思われます。

2,エレミヤの祈り

彼はその中で何をしていたのでしょうか。彼は神に祈っていたのです。八方ふさがりの状況でも、クリスチャンは祈ることが出来ます。祈りによって、神様から打開策を与えて頂くことが出来るのです。

この事はまず神様が、監視の庭に閉じ込められていたエレミヤに語られました。1節の主の言葉があったと言うことがそれを示しています。今日私たちは直接神の言葉を聞くことは出来ません。しかし、聖書を通して神様は私たちに語って下さいます。そして、真理の御霊様を通して、私たちに神様の御心と計画を教えて下さることが出来るのです。そして、「わたしを呼べ」と言われました。それは、アラジンと魔法のランプではありません。自分の願いをかなえるための祈りではない、と言うことです。それよりももっと大きいことを神様は語られたのです。それは3節にある「理解を超えた大いなる事」であったのです。

3,エレミヤのまぼろし

神が彼に告げられたのは、イスラエルユダヤの滅亡でした。5節のカルデヤ人とはバビロニア人のことです。町々は引き倒され、その家々にはしかばねが満たされると虐殺と破壊のことが語られたのです。そして実際はどうだったのか。エルサレムは破壊され、人々は殺され、王も目をえぐり取られバビロンに引かれていったのです。

その原因は一体なんでしょうか。彼らのすべての悪とあります。聖書で言っている悪とは、神ならぬ神を神とすることです。神を敬わない、神に従わない、神にそむいて生活する、そのようなことが悪なのです。

それではイスラエルが滅びることが神の御心であったのか。そうではありません。6節には、いやして直し、平安と真実を示す、と約束されています。それが神様の目標でした。

イスラエルの罪とは何か、「わたしに犯したすべての咎」とは偶像礼拝であり、形式主義的な礼拝でした。それは形だけの中身はからっぽの礼拝であり、偽りの平安を祭司や偽預言者は語っていたのです。それがカルデヤ人に打ち砕かれ、バビロン捕囚となりました。

しかし、神様はイスラエルを憐れみ、8節にあるように、きよめ、わたしにそむいたすべての咎を赦すと約束されたのです。 それは過去の歴史ではありません。私たちにとって、罪を犯す、神に従わない、不従順の罪があります。そのまま放っておけば滅びに至ります。エレミヤの預言の目的は悔い改めでした。それは私たちも同じです。私たちもまた、神に対する不従順不信仰を悔い改め、神の喜び、栄誉、栄えを回復させて頂きましょう。

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)