柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「キリストの支配」ローマ5章17-18節

クリスマスを迎える季節になっています。楽しい時であると思います。私たちにとって最も素晴らしいものは何でしょうか。必要なものは何でしょうか。それは命です。命がなければ喜ぶことも楽しむこともできないからです。命ほど大切なものはありません。
クリスマスの最大の喜び、それはイエス・キリストが私たちに新しい命永遠のいのちを与えてくださることです。


1,アダムの違反

命と反対の言葉があります。それは死です。私たちは肉体のいのちを持ってこの世に生まれました。しかし、必ず死ぬときがあるのです。なんで死ななければならないのでしょうか。私は救われる以前、ずっと疑問に思っていました。しかし、聖書を読んだ時にその疑問は解けました。それは罪という問題です。ひとりの違反によって、死が支配するようになった、とあります。罪が原因で死がもたらされた、人は死ななければならなくなったと言うことです。現在も殺人事件は多くあります。悲しいことです。なぜ人を殺さなければならないのか、それは自分が利己的になり、自分中心に物事を考え、自分の気に入らなければ人を殺す、自分の迷惑なら殺してしまえと言うことです。 私たちには多かれ少なかれそのような心・感情があるのではないでしょうか。あんな人は死んでしまえばいいんだ。それは心の中で殺人を犯していることです。「欲がはらんで罪をうみ、罪が熟して死を生み出す」と聖書にある通りです。
ダビデもそうですが、私たちも罪の中に生まれてきました。その性質を受け継いでいるのです。子どもでも自己中心的です。自分の気に入ったおもちゃは絶対に他の子どもに貸しません。これ私の、これ僕のといって触らせません。そんな、心が生まれながらにしてあるのです。その苦しみを、ダビデパウロも悩みました。私たちも悩むことがあるでしょう。どこに救いがあるでしょうか。キリストに救いがあるのです。私たちを、死の苦しみから、そして罪を犯す悩みから救い出して下さるのはイエス・キリストだけなのです。


2,キリストの支配

一人の人アダムによって、罪が入り、死に支配されるものとなったのです。彼の元々の失敗は何だったのでしょうか。不従順です。彼は神に従わなかったのです。食べてはならないと言われていた木の実を取って食べたのです。それが、彼の不従順であり、罪を犯す結果となったのです。
彼は罪を犯してどうだったでしょうか。神から隠れました。神から逃げたのです。暗闇に身を潜めて、恐怖の中にいました。いつこの悪事がバレるかわからない恐怖におののいていたのです。そして、その悪事がバレました。彼は何をしたでしょうか、その罪・責任を神が与えられたエバになすりつけたのです。彼らはお互いに助け合うものとして造られました。しかし、罪の現実は、その責任を他人のせいにすることでした。エバも同じでした。蛇―サタンのせいにしたのです。それが罪の表れです。自分の失敗を認めない、それを隠す。そして、責任逃れ責任転嫁をする。そして、その行き着く先は滅び―死であるのです。恐ろしいことです。私たちは、死の原因となる罪から救われなければなりません。罪の解決がない限り死の解決は得られないのです。誰が、罪の解決をしてくれるのでしょうか。
それがキリストです。イエス・キリストは私たちを死の滅びから、罪の苦しみ悩みから救うために来られた方です。この方によって私たちの罪は解決出来ます。
18節に、一人の人の義の行為、とあります。キリストの十字架です。キリストは、一つも罪を犯されませんでした。もし、一つでも罪を犯しておられたら、私たちを救うことはできません。私たちの身代わりになる資格はないのです。私たちの身代わりになるためには、唯一、罪を犯していない者が身代わりになれるのです。「キリストは罪を犯したことがなく、…ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず」とペテロは証しています。全く罪を犯されなかったのです。そして、私たちの身代わりになって十字架に死なれました。それがキリストの義です。十字架の犠牲によって私たちは赦されるのです。そして、私たちがキリストの十字架を信じるなら、私たちは赦され、義と認められ、命が与えられます。私たちは信仰により、罪に打ち勝って、もはや罪の奴隷とはならない。なぜなら、キリストが私たちの心を愛によって、支配し守り、命を与え続けて下さるのです。私たちは、キリストの命によって、喜び感謝して生きるものとさせて頂きましょう。


             (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)