柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「私に来なさい」マタイ11章28節

日曜日は一般では休みの日です。また、教会でも安息日、安らぎを得る日として受けとめています。今の時代ほど、ストレスが溜まる時代はないかも知れません。多くの人は安らぎを求めます。どこに心の休場があるでしょうか。
イエス・キリストは私たちに「わたしのところに来なさい」と言っておられます。すなわち、イエス・キリストに、イエス・キリストご自身に安息がある、休ませてもらえる休み場があるのです。


1,心の重荷をおろす

徳川家康は「人の一生は重き荷を背負いて遠き道を行くがごとし」と言ったそうですが、それだけでは人生何の希望も励ましもないと思います。重荷だけしかなければつらい人生です。2000年前の時代にも重荷がありました。一つは、ローマに支配されているという重荷です。人々には政治的自由はなく虐げられ、ローマに対する税金も課せられていたのです。言うならばローマの奴隷となっていました。彼らの生活には喜びがなかったのです。
そしてまた、もう一つの問題がありました。宗教的問題です。安息日を守らなければならない。本来は、魂の安息であったものが、してはいけないと言う律法ができて、大変窮屈なまた、人の命を救うどころか損なうような律法に縛られてしまっていたのです。聖書を読むと分かります。イエス・キリストに敵対している、パリサイ人や律法学者が、イエス様が癒やされたことに対して、安息日の律法を破っていると非難したのです。
それに対してイエス様は、人の命を救うのと見捨てるのとどちらが大切かを問われました。もちろん人の命を助ける方が、救う方が大切です。
そしてものの見事に、足のなえた人はイエス様により癒やされ強められ、歩けるようになりました。また、目の見えなかった人も、イエス様によって、目が開かれ見えるようになったのです。奇跡の業が、聖書に記されています。イエス様は、救いの御言葉を語ると共に、人々を癒やされました。そこに本当の安息―安らぎがあるのです。
そして、それは今日も可能です。私たちは、イエス・キリストの元に行くなら、イエス・キリストは今でも私たちを癒やされます。そして、心の重荷をも取り去り、いやして下さるのです。


2,私に来なさい

そして、そのためにイエス・キリストはなんと言われているでしょうか。「わたしのところに来なさい」―来ると言うことです。
多くの宗教は、こうしなさい。ああしなさい。と勧められるのではないかと思います。良いことをしなさい、そうすれば良い結果が得られますよと言われるでしょう。
ところが、イエス・キリストは「来なさい」と招かれるのです。そのままで、何もしないで、来なさいと言われます。それがただ一つの条件です。
キリストの元に行く、そして、重荷を下ろすことです。それをキリストにお渡しすることです。
a.一人のおばあさんが重い荷物を背中に背負って坂道を登って行ったそうです。そこに車で通りかかった一人の紳士が見かねて声をかけ、乗せてあげました。しかし、ふと横を見るとおばあさんは、荷物を背中に背負ったまま乗っているのです。紳士は「どうして荷物を背負っているのですか」と訪ねると、「こんなものを自動車に乗せていただいてこれだけでもありがたい、荷物を下ろすのはもったいなくて」と行ったそうです。すると、紳士は笑いながら、荷物を背負っても置いても重量は変わりません。どうぞ、横に置いて楽にして下さいと言ったそうです。 
私たちは、キリストの元に重荷を下ろすことです。自分で担いでいる必要はないのです。キリストがそれを負ってくださいます。
心の重荷、心の罪をもキリストは負ってくださいます。自分で解決出来ないものを、キリストは十字架に負って赦して下さいます。キリストによって心の安らぎを与えて頂きましょう。


                (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)