柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「祝福の回復」エレミヤ33章1-9節

エレミヤは、涙の預言者と呼ばれ様々な苦難を味わいましたが、彼の生涯は苦しみの中から救出が与えられる連続の生涯でもあったのです。私たちもまた、必ず救い出される希望があります。


1,神に求める

ユダヤの滅亡という大変困難な中にあったエレミヤに神様は何と言われたのでしょうか。それは「わたしに呼べ」と言うことでした。神に呼ぶとはどういうことでしょうか。それは神に祈ると言うことです。どんな時でも私たちは神に呼ぶことができる。祈ることができるのです。
もし、私たちが祈るなら神様はどうされるでしょうか。あなたに答える、と約束されています。神様に祈るなら、必ず答えが与えられます。応答しないことは、まったくありません。もちろん、神様の答えは私たちの願いが必ず成るというものではありません。あるいは、自分が願っていたのとはまったく逆になるのかもしれないのです。
私たちも、苦難のときにこそ、神様に呼ばわるべきです。祈りによって神様は必ず応えて下さいます。


2,苦しみの原因

ユダヤの人々は、その先祖が信仰の父と言われたアブラハムであり、彼らはその信仰の子孫であるはずでした。しかし、彼らは、真の神に背を向け、偶像礼拝に陥ってしまったのです。もちろん偶像とは仏像のような人間の手で彫られたもの、作られたものです。見える形のものが偶像ですが、今の時代ではさらにちがった偶像があります。例えば、アイドルもまさに偶像であり、お金や自分の名誉も偶像となり得るのです。全能の創造主以外のものを第一としてしまうなら、それが偶像となります。偶像には、力はありません。人を助けたり、人に命を与えることはできないのです。しかし多くの人々は、神に敵対するサタンの働きにより、心の目がくらまされて、今日における偶像礼拝に陥り、あのユダヤの人たちのように祝福を失い、破滅へと向かって行ってしまうのです。
ユダヤの人たちには、誤った考えがありました。自分たちは神に選ばれ、当然守りがあると思い込んでいました。その実、彼らの心は神様から離れ、この世のものを繁栄を栄華を第一として、神様の思いをまったく無視していたのです。それ故、そのままでは滅びに向かうとエレミヤを通して語られたのですが、彼らはそれを無視し、ついにはバビロンと戦いを起こし、滅ぼされるのです。
なぜ彼らはそのようになったのでしょうか。神に原因があったのでしょうか。そうではありません。神に対する罪、不従順、背きの罪が神を悲しませ(8節)、神はその顔をイスラエルから隠されたのです(5節)。彼らはますます暗くなり、悪に悪を重ねるようになったのです。それ故に、彼らは苦しみを味わい、その咎を負うものとなったのです。歴史を見ればわかります。彼らは、捕囚となってバビロンに引かれていき、異境の地でむなしく暮らさなければならなくなったのです。


3,祝福の回復

しかし、神様はそのユダヤの民を見放されませんでした。信仰の父アブラハムに約束されたように、そんな不信仰のイスラエルの民を、ご自分の民、宝の民として守られたのです。
その祝福とは何でしょうか。傷をいやして直す(6節)と言われます。今の私たちにとって大きな問題は何でしょうか。心の傷ではないでしょうか。様々ことで、私たちの心は痛み傷ついています。しかし神様は、いやし主です。私たちの心をも、いやし包み込んで直して下さるのです。
預言者イザヤは、いやし主が現れることを預言しました。「その打たれた傷によっていやされた」(イザヤ53:6)と言いましたが、イエス・キリストの十字架のことです。キリストの十字架には私たちの心の傷をいやし、そればかりか私たちの罪・咎を赦す力があります。私たちは神を信ぜず、自分勝手に生きてきて、やがては滅びに向かうものでありましたが、神様はそのひとり子イエス・キリストを私たちに与えて下さり、キリストが私たちの罪を背負って死んで下さったのです。その十字架により、私たちの罪は赦され、心の傷もいやされて元気になることができるのです。十字架には私たちをいやし、生きる力、永遠のいのちを与えるものなのです。
更には、神様は繁栄をもとのようにし(7節)、更には国々の間で栄える(9節)と約束されました。今日のイスラエルを見るときに確かに神の約束は真実であることがわかります。国は復興し、多くの優れた人たちがいます。それは、神様の約束の故なのです。
それゆえに、私たちもまた神様の祝福に与ることができるのです。アブラハムも失敗しましたが、それでも神様は彼を祝福されました。私たちも同じです。同じように信仰によって祝福が与えられるのです。

      (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)