柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「『破れ口』に立つ」詩篇106篇16-23節

今日の聖書の箇所は、イスラエルの人たちがエジプトを脱出し荒野を旅する姿が描かれています。そこには、神に対する反逆がありました。そして、神の裁きも記されています。イスラエルの人たちは滅ぼされそうになりましたが、そこに立ち上がったのは神が選ばれた人モーセでした。彼の働きによりイスラエルは救われたのです。
今の時にも、モーセの働きは必要です。神様は必ず、救いの業をなす者を起こされます。


1,神に対する反逆

荒野を旅する中に問題が起こりました。それは、民の指導者であったモーセとアロンに逆らうということです。17節にはダタンとアビラムという2人の名前が出てきます。彼らはルベンの子孫でした。ルベンはヤコブの長男であり、跡継ぎであるはずでしたが、姦淫の罪を犯し、その権利を失ってしまったのです。
その二人に対して、レビ族のコラがモーセとアロンに対して「全会衆残らず聖なるものである。あなた方は分を超えている。なぜ、主の会衆の上に立つのか」(民数記16:3)と不満を言ったのです。そのとき、モーセはどうしたでしょうか。彼はひれ伏したのです。何も言い訳や弁明はしませんでした。
彼ほど謙遜なものはいないと神様が言われるほどにへりくだった人でした。そして「主がお示しになる」と告げたのです。そして恐ろしいことが起こりました。地震が起こり地が裂け、モーセとアロンに反逆するものたちは真っ逆さまに落ちていったのです。そして、神から火が下り香を焚くもの250人が焼き尽くされてしまったのです。
その原因は何であったのか、ねたみであったと聖書は言っています。彼らの心に問題がありました。モーセとアロンは神が立てられた人たちでした。それに逆らうとは神に逆らうことであったのです。


2,偶像礼拝

そして、彼らの犯した罪はこれだけではありませんでした。ホレブという所 すなわちシナイ山の麓で、彼らは偶像を作り戯れ踊り、そして礼拝したのです。神でないものを礼拝しました。それは、神様が最も悲しまれること忌み嫌われることであったのです。ですから、十戒の最初に「偶像を造ってはならない。拝んではならない。」(出エジプト20:4,5)とはっきり言われています。その咎は三代四代に及ぼされるとあります。偶像に荷担するものであってはならないのです。
彼らは神の栄光を、草を食らう雄牛の像に取り替えてしまったのです。彼らは、自分たちの救い主である神を忘れてしまったのです。彼らがエジプトでどれほど苦しみ、大きな嘆きの中にあったのかを忘れ、そして神様が彼らを救うためにどれほどの大きな業をされたか忘れてしまったのです。
私たちは同じように忘れてはならないのです。もし忘れるなら、祝福を失います。それどころが呪いを受けて滅ぼされるものとなってしまうのです。ダタンやアビブのことを忘れてはなりませんし、使徒の働きに出てくるアナニヤやサッピラそして魔術師シモンのことを忘れてはならないのです。


3,破れ口に立つ

神様は不従順不信仰のイスラエルを「滅ぼす」と言われました。彼らは地獄に落ちて当然のことをしたのです。神に逆らうものの行き着く先は滅びです。地に飲み込まれてしまったダタンやアビブのことを忘れてはいけないのです。
その後のイスラエルはどうなったでしょうか。全部滅ぼされなかったのです。神の人モーセが神様の前に立ちました。そして彼は神様に懇願しました。お祈りしました。彼らを赦してください。もしかなわないなら私の名をいのちの書から消し去ってくださいと言ったのです(出エジプト32:32)。その取りなしの祈りでイスラエルは救われたのです。それは、イエス様の姿でした。「父よ、彼らをお赦しください」と祈られたイエス様の姿がそこにあったのです。その祈りによって私たちは救われるのです。イエス様の十字架の死は私たちの身代わりでした。私たちの不信仰不従順をあの十字架の上で負ってくださり死んでくださったのです。その赦しによって私たちは救われ、神様に愛されるもの神の子となることができたのです。
それ故に私たちは愛されています。どんなつらい逆境の時も死の中から復活されたイエス様が、私たちの心を癒やし、倒れたものを引き上げ生かしてくださるのです。主に感謝しましょう。


(宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)