柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「主のために生きる」ローマ14章1-9節

この世で生きる私たちはお互いに意見の異なるときがあります。教会の中でも食い違いの出ることもあります。しかし、信仰にはそのちがいを乗り越えさせる力、解決があります。


1,この世での問題

ローマは今でこそキリスト教の町でしたが、初めはそうではありませんでした。異教の神々すなわち偶像があり、神殿がありました。ローマの市場で売られている肉などは、まず偶像の神に捧げられてから市場に出回る物もあったようです。ですからイエス・キリストを信じクリスチャンになってから、果たして偶像に捧げられた肉を食べても良いのだろうかと疑問に思う人もいました。
ローマの教会の中でも偶像に捧げられた肉を食べない人や、食べるという人もいました。クリスチャンは人の手で作った偶像を拝むことはしません。しかし、ときには偶像に捧げられた肉を市場で買ってきて食料にしなければならないこともあったでしょう。
そしてもう一つの問題がありました。それはユダヤ教からクリスチャンになった人たちでした。彼らは旧約聖書の律法によって生活していました。過ぎ越の祭りや、仮庵の祭りなど特別な宗教儀式を行う日を自分たちの習慣として守っていた人たちもいました。
しかしクリスチャンになったものにとって、もはや旧約聖書の宗教儀式は守るべきものではなくなったのです。


2,キリストの救い

ローマには様々な文化や風俗が各地からもたらされました。多種多様な人たちがローマにいました。そして、それぞれ独自の文化を容認してローマ帝国は成り立っていました。
教会はどうだったでしょうか。一つの大切なものがあります。それは、イエス・キリストによって私たちは救われたということです。私たちの一致できるところは、キリストの十字架による救いであり、キリストが私たちの主であると言うことです。キリストは教会のかしらです。そして私たちはキリストの枝、体のそれぞれの部分であるということです。体には、手があり足があります。それぞれ形がちがい、役割や機能がちがうのです。手は足のようになって歩けませんし、足は手のように物をつかむこともできません。それぞれに大切な役割があるのです。
1節に「さばいてはいけません」3節に「神がその人を受けいれて下さったのです」とあります。私たちは互いに受けいれ合い愛し合う必要があるのです。4節に主のことが出ていますが、キリストが私の主であり、あなたの主なのです。キリストが彼をもあなたをも立たせて下さるのです。


3,主のために生きる

私たちが救われたのは、キリストの故です。ですから、私たちが生きるのはもはや自分のためではなく、私のために死んでよみがえって下さった方すなわちキリストのために生きるのです。もし、キリストのあわれみ、愛がなければ私たちは赦されませんでした。キリストがあわれんで下さったから、今生かされているのです。そんな私たちは、兄弟をさばいて良いのでしょうか。(?コリント8:11,12参照)その姿を十字架の主はどのように見られるでしょうか。私たちはさばくのではなく、キリストの愛の故に、十字架の罪の赦しの故に愛する必要があるのです。それはもう一人の助け主、御聖霊がなされます。
私たちの心に、慰め主癒し主である御聖霊は私たちの心に十字架を現してくだり、キリストの愛に私たちを満たして下さいます。私たちは主のために生き、主に喜ばれるものとならせていただきましょう。

              

              (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)