柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「いのちの回復」使徒20章7-12節

このところには、小アジア(今のトルコ共和国)で伝道していたパウロの姿があります。また当時のクリスチャンたちの礼拝の姿、日曜日をどのように過ごしたかがわかります。


1,宣教の熱心

ユダヤ人からクリスチャンになった人たちは当初、週の終わり安息日(今の土曜日)に集まって礼拝を持っていました。しかし、ユダヤ人の会堂から追い出されてしまう結果となり、週の初めの日すなわち日曜日に礼拝を持つように成りました。
ここでも、週の初めの日にパンを裂くために集まった(7節)。とあります。それは、今の愛餐会(食事を共にすること)と聖餐式を意味しています。すなわちそれは礼拝です。当時はまだ会堂がありませんでした。おそらくは有力な人の家に大勢の人たちが集まって、パンを裂き、御言葉を聞いて礼拝をしていただろうと思われます。
このときまだ、聖書(66巻)はありませんでした。パウロが福音を人々に語りました。今はパウロほどの宣教者がいなくても聖書があります。聖書を通して神の御言葉を聞くことができるのです。
ですから、当時の礼拝は3つのもので成り立っていたと思われます。それはすなわち、?みことばの宣教と?聖餐と?愛餐です。今の時代でもそれは必要であり大切なものです。私たちも神の御言葉すなわち聖書と聖餐式、そして愛餐を通して主にある交わりを重んじていきたいと思います。
そしてここには、御言葉に対する熱心さ福音に対する真摯な思いが表れています。翌日パウロは船で出発することになっていました。普通でしたら夜早めに寝て、明日に備えると思います。ところがパウロもそしてトロアスにいた人たちもそうではありませんでした。なんと夜中語り明かしたとあります。それだけ熱心に御言葉に聞き入り、福音に耳を傾けていたのです。しかも、語り合っていたとありますから、パウロだけが一方的に話をしたのではなく、他の人たちも御言葉を語り、分かち合うときが持たれていたと思います。
私たちもまた、熱心に御言葉の恵みを分かち合うものでありたいと思います。


2,いのちの回復

ところがその時、大変なことが起こりました。一人の青年が窓の所に腰をかけていましたが、うとうととしそして三階から落ちてしまったのです。長話も禁物であると思います。そして、抱き起こしてみたら死んでいました。この書を書いたルカははお医者さんでした。彼の目からして青年は死んでいたのです。それが事実であると思います。
しかし、パウロが彼の上に身をかがめ「心配するな」と語りました。そして抱きかかえると死んでいた青年は生き返ったのです。
御言葉の恵みが語られて、主にある幸いな交わりがあるときにもサタンは巧妙に働きます。熱心さに水を差し、そして喜びを悲しみに変えようとするのです。しかしそれでも、神様は働かれ、守られます。
たとえ前途有望な青年が「もう死んだ」といわれる絶望的な状況の中にあるときでさえ、死者をよみがえらせて下さる神により頼むとき(?コリント1:9)、奇跡の御業が起こるのです。「私はよみがえりでありいのちである。私を信じる者はたとえ死んでも生きる」と言われるキリストを信じるときに勝利が与えられます。
なんと死んだ青年は生き返り、なおも屋上の間に上がって、パンを裂き、交わりをなし明け方までそれは続きました。神様の働きは妨げられることはありません。福音の恵みは限りなく前進するのです。
そして、トロアスの人々は生き返った青年を家に連れて帰り、彼らは深く慰められたのです。神の御業は今も続いています。私たちも同じ信仰を持ってくじけることなく、死んだ者をもよみがえらせて下さるイエス様を信じ、絶えずいのちの回復をいただくものでありたいと思います。


       (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)