柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「平和をつくるもの」マタイ5章9-12節

日本は戦争が終わって今年66年となります。日本は平和ですが、世界の各地では今なお紛争や戦いが続いています。

どうすれば世界が平和になれるでしょうか。

1,神との平和

平和をつくる者とありますが、この世での平和運動のことではありません。聖書では特別な意味があります。それは神との平和です。神と争わない、神様と共にいて平安であるという意味があるのです。
この世ではどれほどの人が神との平和を得ているでしょうか。心の平安があるでしょうか。私たちもまず、神との平和が与えられなければなりません。どのようにして神との平和を得られるでしょうか。私たちの心には、神に背く思い―神に従わない心すなわち罪があります。その罪は、私たちの良心によっては解決できません。誘惑に負けてしまい、決まりを破ってしまうことがあるのです。
アダムとエバがそうでした。食べてはいけない木の実を食べてしまったのです。私たちも同じ誘惑があります。「冷蔵庫によく冷えた水ようかんがあるから食べたらだめよ。」と言われれば食べたくなるのです。誘惑に勝てないのです。
しかし、大丈夫です。私たちには救い主イエス・キリストがおられるのです。私たちの失敗、罪の報いとしての裁きを、あの十字架の上で負われました。私たちの身代わりとして、イエス・キリストは裁かれて下さったのです。
ただ、このキリストを自分の救い主として信じるなら、私たちは神様に正しいと認められることができるのです。それだけでなく、私たちを神の子として下さり、やがて来たるべき神の国天国で豊かな報いを受けることができるのです。


2,天国での報い

普通、苦しみを受けることは不幸であり損だと思います。しかし、聖書には「義のために迫害されている者は幸いです」とあります。なぜ迫害されることが幸いなのでしょうか。ここにある義とは、個人的な正義や人間の正しさではありません。これは神の義であり、十字架による正義のことです。すなわち、私たちが神の前で正しいとされたのは、私たちの行いによる正しさではなく、十字架によって赦され与えられる正義なのです。私たちは十字架によって義と認められたのです。
私たちもかつては、神に敵対するものでした。しかし、十字架によって赦され、義とされる恵みに与ったのです。ですから、私たちが神の義に立ち、迫害されることがあってもそれはむだではありません。神様は全てをご存じであり、そして受ける報いは非常に大きいのです。
韓国でのプロテスタント宣教は1884年頃から活発化しました。初代の宣教師李基豊はかつて迫害者でした。モファット宣教師のあごを石で打ち砕きましたが、その後神の迫りを心に覚え悔い改め救われました。そして、済州島で困難な中伝道をしましたが、やがては教会が建ち、幼稚園もできました。後に、韓国本土に戻り伝道牧会に励まれ、戦時中に神社不参拝スパイの容疑で逮捕され、拷問を受け75才で殉教したのです。韓国では2000人以上が投獄され53名が殉教したと言われています。しかし、今日クリスチャン人口は30%を超えていると言われるほどになっているのです。
神様は私たちに豊かに報いて下さいます。たとえこの世において苦しみしかなかったとしても、天の御国において私たちの苦しみや労をねぎらって下さり、悲しみの涙をも神様はぬぐって下さるのです。
天に報いを望みつつ、信仰の期待を持って、平和をつくり出す者とさせていただきましょう。


         (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)