柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「信仰といやし」ルカ5章12-16節

3月は年度替わりの月です。私たちも気持ちを切り替え、心を新たにさせていただきたいと思います。


1,ツァラアトの意味

聖書の箇所にツァラアトということばが出てきます。以前はライ病と訳されていましたが、今ではツァラアトと表記されるようになりました。
人体だけではなく、衣服や動物の皮、家屋にも付くのです。旧約聖書では汚れたものと見なされていました。それで、人に近づくことも交わることもゆるされなかったのです。
それはまさに、この世との断絶また神からも離れてしまっている状態を表しているのではないでしょうか。ある意味社会から締め出され、生きる意味をも失っている状態ではないかと思います。とするならば、今の時代において自分の生きる意味を見失っている人も少なからずあるのではないでしょうか。私たちはその状態から救われる必要があります。


2,キリストの来られた意味

このツァラアトに冒された人はイエス様のもとに来て懇願しました。普通は旧約聖書にあるように祭司に認定してもらうのですが、この人はイエス様のもとに来たのです。
エス様は「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」(ルカ 5:32 ) と語られたように、私たちを罪の苦しみから救うために来られたのです。
罪と言っても犯罪ではありません。それは心の悩みでもあり、癒しがたい傷であり、魂の苦しみでもあります。ツァラアトの人は他の人から隔絶され、孤独と悩みの中にあっただろうと思います。しかし、キリストは彼をいやされ、ツァラアトはすっかり消えてしまったのです。
キリストこそ、救い主であり神の前に立って私たちをとりなして下さるお方です。キリストは私たちの罪を赦し、汚れを聖め、新しくして下さるお方です。


3,どのようにしてきよめられるか

彼がきよめられた大きな要因は彼の信仰にありました。「お心一つで、きよくしていただける」それが彼のイエス様に対して持っていた信仰です。それは、人に対する敬意や願いではなく、絶対者に対するまったき服従であるといえる信仰なのです。「人には出来ないが、神には出来る、神には何でも出来るからである」という信仰なのです。
そして、もう一つ大切なことは、キリストは救いの手をさしのべられたと言うことです。ツァラアトの人は他の人に近づくことさえもゆるされませんでした。また他人がツァラアトの人に触れることも全くあり得ないことでした。ところがイエス様は触れられたのです。それがイエス様の心です。汚いと言われるものにも自分の手を伸ばし触れて下さる。それがキリストの愛であり、救いの御手なのです。
そして、ことばを掛けられました。「わたしの心だ、きよくなれ」と。そして、おことば通りになったのです。
 イエス様は他人に話さないようにと言われましたが、おそらくその人はうれしさのあまり証ししたでしょう。キリストのうわさはまたたく間に伝わり、多くの人が来たのです。
信じるものに神様は大きな御業を現してくださいます。


        (宣教者 柏原教会牧師  西本耕一)