柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「恵みの支配」ローマ5章20-21節

先週はニュージーランドで大きな地震が起こりました。またイスラム諸国で大規模なデモが起こっています。イエス様は 「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。」(マタイ24:7)と言われたことが現実に起こってきているように思えます。それは終わりの始まりであり、私たちは心を備えなければなりません。


1,罪の支配

私たちはこの世に生まれてきたら、必ず死ぬことがあります。誰も死を避けることはできません。
なぜこの世には苦しみや死があるのか。これは大きな問題だと思います。災難はいつ起こるかわかりません。わたしはイエス様がルカ13:4で、「シロアムの塔が倒れて18人の犠牲者が出たとき、彼らだけの問題ではない、私たちも悔い改めなければならない」と語られたことを思い出します。
私たちはもう一度、神の前にへりくだり自らが何者であるかを考えなければなりません。そして、魂の救いを真剣に考えるときであると思います。
なぜ人類に死が入って来たか、その大きな原因は罪であると聖書は言っています。「罪の支払う報酬は死である」とローマ6:23にあります。その元となったことは、神が最初に造られたアダムとエバに原因があります。彼らは神の命令に従わないで罪を犯しました。彼らの欲とサタンの欺きにより、取って食べてはならないと言われた木の実を食べてしまったのです。祝福を与えて下さる神を彼らは裏切ってしまいました。それ故に呪われたものとなり、罪に支配されるものとなったのです。
私たちは不思議と死を恐れます。いったいその後に何があるかわからない不安があります。それと同時に、悪いことをしたら裁かれる、罪の報いを受けるという恐れが心の中に生じてくるのです。それ故に、罪を犯すと平安がなくなるのです。顔で平静を装っていても心はいつもドキドキし、少しのことにも過剰に反応し、落ち着かなくなってしまいます。


2,恵みの支配

ただ人間の人生が、罪の苦しみや悩み不安だけであるなら、全く生きる甲斐はありません。それは空しいものです。しかし、幸いに神様は私たちに救いを与えて下さいます。生きることのすばらしさを教えて下さるのです。
アダムは神に従わず、罪を犯して、死の恐れをもたらしました。ところが神様はそのアダムと対照的な一人の人を私たちに与えて下さったのです。それはイエス・キリストです。
アダムは私たちに罪の性質をもたらし、欲に負けサタンの誘惑に敗北するものとしました。その故に行き着く先は永遠の滅びです。しかし、神はイエス・キリストによって新しいいのち、復活のいのちを与えて下さったのです。キリストは十字架の死で終わりませんでした。死の中からよみがえられて、復活のいのちを証明されたのです。私たちはそのいのちを信仰によっていただくことが出来るのです。
それが、恵みです。恵みとはその賜物を得る資格がないのに与えられるということです。私たちは、信仰によって恵みの中に生きることが出来ます。たとえ死んでも、それで終わらない復活のいのちが与えられている。それは何と幸いなことだろうかと思います。


3,恵みの目的

なぜ恵みが必要なのか、聖書は明確に答えを出しています。それは「永遠のいのちを得させるためである」(21節)なのです。永遠のいのちが私たちの内に満ちあふれる、そのために私たちは恵みに生きる、恵みに生かされる必要があるのです。 私たちはもはや、律法によって生きるのではなく、恵みの支配に生きるべきです。律法は私たちを豊かにはしません。いのちを与えません。それはただ、罪の自覚を与えるだけです。でもそれも、必要です。自覚がなければ大変なことになるのです。
「違反がまし加わる」とは罪の自責の念が強くなることです。
罪の自覚があってこそ、救いの必要を感じ、キリストに向かうものとなるからです。そこに恵みが注がれ、キリストの愛に生かされるのです。神の恵みがわたしを覆い包み込んで下さるのです。「罪のまし加わるとことに、それを上回る恵みが満ちあふれる」のです。神様は私たちをそのようにして下さいます。この世は不安で一杯ですが、私たちは神の恵みの中に、罪ではなく恵みに支配され覆われ、満たされて生かしていただきましょう。

           (宣教者 柏原教会牧師  西本耕一)