柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「人生の再建」ルカ21章1-9節

聖書には、神の宮すなわち神殿のことが語られていますが、私たち自身が神の宮―神殿であると理解し私たち自身の立て直しを考えてみたいと思います。


1,神殿の歴史的経緯

ここに神殿の話が出てきます。エルサレムにかつてあった神殿は、3人の人によって立てられました。最初ダビデの後を継いだソロモンが神殿を建てました。それは非常に荘厳であったと言われています。
その後国は分裂して、神殿は破壊されイスラエルの民はバビロンに補囚となったのです。
70年の年を経て、イスラエルの民は帰還し神殿を再建しました。それが第二神殿と呼ばれるものです。イスラエルの年寄りたちはそれを見て涙を流したそうです。
そして、その後ヘロデ大王がソロモンの神殿にまさるところの大神殿を建設しました。全世界からそのうわさを聞きつけ、多くの人たちが礼拝に訪れたのです。
しかし、今は西側の外壁の一部が「嘆きの壁」として残っているのみです。なぜそんな事が起こったのでしょうか。


2,神殿に対する神の計画と預言

ヘロデの建てた神殿を見てすばらしいと賞賛した人々がいました。みんなが口々に神殿を褒めていました。しかし、それは神様の喜ばれるものではありません。神様は人の造ったものの中に喜んで住まわれるような小さなお方ではないのです。むしろ真の神様はすべてのものを造られたお方であり、人間以上の方です。私たちの手のわざを見て喜んだり、私たちの働きを求めるお方ではありません。
そして、イエス様はその神殿が壊されることを預言されました。それは歴史において紀元70年ローマ帝国によってあとかたもなく破壊されてしまったのです。今は、嘆きの壁が残っているだけでいまだに再建されていません。
それ以上に大変なことはこれから起きることです。33節で「天地は滅びます」とイエス様は言われました。万物の終わりは必ず来るのです。そして大事なことは、滅びることの心配よりも、救われることの希望です。
滅びの予言というものは昔からありました。ノストラダムスの大予言もありましたが、実現しませんでした。人の心は惑わされます。不安感があおられたり破壊的な行動に人々が駆り立てられることがあります。最近でも、アフリカ北部や中東のデモを見ます。混乱に乗じて略奪も起こっています。でもイエス様は「怖がってはいけません」と言われ、リーダーなき混迷の時代にあっても、「惑わされてはいけません」と言われます。私たちは、どんな時にも神の御言葉―聖書によって、しっかりした歩みをさせていただきたいと思います。


3,私たちが生きた神の神殿である

神殿の中で、イエス様が褒められた一つのことがあります。それは、貧しいやもめが献金をしたことです。大勢の人が礼拝にやってきました。たくさんの献金をした人たちもいます。私は、ある聖書の挿絵で金持ちの人がふんぞり返ってたくさんの献金をしている側でみすぼらしい婦人が献金している姿が描かれている挿絵に目がとまりました。人は外見を見ますが、神様は私たちの心を見られます。
なぜ、レプタ銅貨を二枚投げ入れたやもめが多く献げたのでしょうか。彼女は乏しかったのですが、生活費全部を投げ入れたとイエス様は言われたのです。自分の持っているもの全てを献げたのです。私たちはどうでしょうか。彼女と同じ信仰を持って、献げているでしょうか。神様は私たちの心を見て下さっておられるのです。金額ではなく信仰を献げたいと思います。真心を込めて献げるものでありたいと思います。
なぜなら、キリストは私たちのためにご自身を献げられました。私たちの罪を赦すために、身代わりとなって十字架にいのちを捨てて下さったのです。それにより私たちは罪赦されて救いにあずかり、天国に入るものとして下さいました。しかも、何と私たち自身が「神の生ける宮である」(?コリント6:16)と言われているのです。私たちはもはや自分自身のものではなく、神に代価を払っていただいて神のものとされ、朽ちずしぼむことのないいのちをいただき、やがての時には栄光の体に変えていただくものとなったのです。
私たちはこのことを感謝し、そして神様が自分のうちに生きて下さる。たとい壊され崩れるときがあっても、私たちはくじけない。復活の希望をもって立て直していただきましょう。私たちには永遠のいのちがあるのです。

             (宣教者 柏原教会牧師  西本耕一)