柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「キリストの約束」 ルカ24章44-53節

5月21日(木)はイエス・キリストの昇天日です。キリストが天に昇られるときに大切なことを弟子たちに約束されました。それは、私たち自身の信仰に関わる大切な約束です。それは時間や場所を超越して与えられる神の約束です。


1.罪の赦しが与えられる約束

47節に「罪の赦しを得させる悔い改め」とあります。罪とは一般的に考えられている犯罪のことではありません。元々は的外れという言葉から来ています。もっと具体的に言うと「離れる」神様から離れると言うことです。アダムとエバは罪を犯しました。食べてはならない木の実を取って食べたのです。そしてどうしたでしょうか。彼らは神から隠れました。離れたのです。罪は人を神から隔てます。神を畏れない、神を無視した生き方になります。「父と母を敬え」といっても、敬わない、ないがしろにする。それでも平気でいる。愛のない生活になってしまうのです。 それは、イエス様の弟子たちにも見られました。彼らは自分たちのうちでだれが一番偉いのか、最後の最後まで競い合い、肝心のイエス様を愛することを忘れてしまったのです。彼らはイエス様に最後まで従って行くと言いながらできなかったのです。ペテロは、三回までも知らないと言って裏切りました。イエス様と目があったとき、自分の不甲斐なさを知らされ、外に出て激しく泣いたとあります。それが私たちの姿です。従いますと言いながら従い切れない弱さがあるのです。
しかしながら、イエス様は「その罪の赦しを得させる悔い改めがエルサレムから始まる」と言われました。事実それはエルサレムから始まりました。あのイエス様を裏切った弟子たちの中から始まったのです。どうして、彼らの間から、罪の赦しを得させる悔い改めが始まったのか、それはまさに神の働き聖霊の働きであったと言うことです。彼らの中に、聖霊が豊かに働かれた。聖霊の独壇場であり、彼らは聖霊に用いられたと言うことです。
なぜ聖霊が働かれたのか、一つだけ、弟子たちの用件、弟子たちが行ったことが一つ聖書に記されています。それは使徒の働き1:14に「みな心を合わせ、祈りに専念していた」とあります。心を合わせ、祈りに専念するときに聖霊は働かれる。必ずリバイバルは起こります。今一番私たちに必要なことは、心合わせて、祈りに専念することです。願わくは私たちも、心合わせて祈りに専念したいと思います。必ず神の御業は現されます。
そしてそのために必要なものは、みことばの確信です。聖書の言葉は必ずなるという信仰です。そのためにイエス様は、弟子たちに特別な恵みを与えられました。それは御言葉が開かれる、みことばの悟りを得るという恵みです。
エス様は、彼らと生活を共にされたとき、御言葉を語られたのです。それは旧約聖書からですが、44節にあるように救い主に関する預言は全部なることを語られていたのです。残念ながら、そのとき弟子たちはわかりませんでした。でも、今は違います。45節にイエス様は彼らの心を開いてとあります。今は彼らの心が開かれ、聖書の言葉がわかるのです。詩編119:130に「みことば打ち開くれば光を放ち、愚かなる者をさとからしむ」とあるごとくです。
おそらく、彼らはみことばの光に心照らされ、十字架のことがわかり、自分の罪のことがわかってきたでしょう。聖霊の光に照らされ、如何に自分が罪に汚れ、主を苦しめ十字架に付けたかを悟ったことと思います。御霊に心探られ、照らされ、ペテロはイエス様を裏切った罪を告白し、ヨハネヤコブは高慢とねたみの罪を言い表し、トマスは不信仰の罪を告白したに違いありません。ヤコブ書5:16に「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」と約束されているとおりです。彼らは、その魂が十字架の血潮によって洗い潔められ、いやされ強められました。私たちも同じことをするなら、同じ恵みにあずかることができるのです。ただそれをしていないだけです。?コリント7:10「神の御心に沿った悲しみは、悔いのない救いに至る悔い改めを生じさせる」とあるとおり、悔い改めが起こるのです。


2.聖霊が送られる約束

エス様は弟子たちに父の約束して下さったものを送る、と言われました。それは聖霊です。聖霊の働きなくして、福音を伝えることは不可能でした。もとガリラヤの漁師がどのようにしてギリシャの智恵やローマの力に打ち勝つことができるでしょうか。人間的に見るなら100%不可能でした。しかし、今や全世界に福音は伝えられています。あの11人の使徒たちが全世界を覆ようとしていると言わしめたほどのものです。
それはまさに、神の力聖霊が働かれ、人を新たに造りかえられるのです。魂を潔め、弱いものを強くし、愚かなものをさとからしめ、心頑ななものの魂を打ち砕き、神にひれ伏さしめる、まさに神の力です。「これは権勢よらず、力によらず、我が霊によるなり」との御言葉通りのことです。
そこにはまた一つの条件がありました。それは上から力を着させられるまで、待つということです。力を着させられるとは武具を身につけるという意味があります。武士が合戦に出かけるときは必ず武具を身につけました。罪の悔い改めをのべ伝えるキリストの弟子も、聖霊に覆われなければ、聖霊に満たされなければそれは不可能なことでした。ところが、ただ聖霊に満たされることにより、あれほどユダヤ人を恐れていた弱い弟子たちが大胆にキリストを証しする勇者と変えられ、また何回も獄につながれても、苦しみや恥を受けるに足るものとされたと喜ぶようになるものとなったのです。
願わくば、私たちも変えられたいと思います。あの弟子たちのように、天に昇るキリストの姿を見るごとくに、みことばの約束を確信し、信仰によって天国の将来を見据え、喜びと希望を持って、主をあがめるものでありたいと思います。


                        (説教者:柏原教会牧師 西本耕一)