柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「キリストの証人となる」 使徒の働き1章3-8節

先週木曜日に神戸の神学校に行きましたとき、マスクをしていた人を多く見ました。私ももちろんマスクをして電車に乗りました。新型インフルエンザはまだ流行っています。「予防は最善の治療である」という言葉を聞いたことがありますが、大切なことだと思います。
 聖書に出てくる罪は、ある意味でインフルエンザににたところがあると思います。(1)肉眼では見えない(2)すぐに自覚症状はない(3)気が付いたら大変なことになっている。未然に防ぐためにはその恐ろしさを知らなければなりません。聖書を読むと罪の恐ろしさ、悲惨さがわかってきます。そして、その解決の仕方も知ることができます。礼拝に出席することは、私たちの魂の救いと霊的に健康に生きるためには欠かせないものです。礼拝を通して、神の命に生かされ祝福を受けることができるのです。
今朝は使徒の働きを開きました。それは来週の主日ペンテコステの日だからです。聖霊が弟子たちに臨まれ、彼らが大きく変わり、全世界に福音が伝えられました。私たちも聞き、救われるようになったのです。そのことを聖書から、学んでいきたいと思います。
神様は私たちにすばらしいプレゼントを与えられます。それは永遠の命と聖霊による喜びです。その二つのものが与えられなければ、クリスチャンとし生きる満足はないと思います。そして、その二つのものを受けるべきことをキリストは私たちに語られるのです。


1,神の国の到来

3節を見ますと、キリストは十字架に付けられ復活されてから、神の国のことを語られたとあります。それはここが初めてのことではなく、キリストが宣教に立ち上がられたときから語られたことです。(マルコ1:15)しかし大勢の人は正しく理解できませんでした。キリストの弟子たちも同じでした。彼らの神の国とは、ローマの支配から解放されて自分たちの手でユダヤの国を支配することでした。しかし神の国とは人間中心の国を造ることではありません。むしろそれは、肉眼では見えない霊的が意味があります。人間が治めるのではなく、神が治められるのです。神が支配されるのが神の国です。黙示録にはキリストが聖徒と共に千年間支配する千年王国のことが語られている。それはまたの機会にお話したいと思います。
もちろんこの地上が、私たちの救い主キリストによって支配されるなら、なんと平安な世の中になるだろうかと思います。争いも、けんかも、また犯罪もなくなります。そうなれば本当に幸いだと思います。初代のクリスチャンたちの願いは、救い主キリストが来られ、世界を支配されることでした。?コリント16:22に「主イエスよ来たりたまえ」とありますが、マラナ・タは当時のクリスチャンの合い言葉でした。そして神の国はあそこにあるとかここにあると言うのではなく、あなたがたのただ中にある(ルカ17:21)と言われました。たとえこの世が神の国にならなくても、私たちの心が神の国、キリストが治めて下さるものになるのです。マグダラのマリアはかつて七つの悪霊に支配されていました。(マルコ16:9)しかしキリストにより悪霊は追い出されて、彼女は平安を得たのです。救われたのです。そのマリヤが最初に復活の主にお会いしました。私たちの心が悪霊に支配されるか、聖霊に支配されるかそれは大きな違いが出てきます。
キリストは、神が支配し治められる、神の国の到来を語られたのです。それは聖霊バプテスマと深い関係があります。


2,キリストの証人となる

5節でイエス様はヨハネバプテスマのことを語られ、そして聖霊バプテスマのことを語られました。バプテスマとは水に浸けるという意味です。イエス様はヨルダン川ヨハネから洗礼を受けられました。そのとき全身を水に沈め、水からあがられました。そのあと聖霊が鳩のように下ってきたと聖書にあります。私たちはどうでしょうか。おそらくそのような経験はなかったと思います。
しかし、聖霊バプテスマはさらに特別な意味があります。私たちの生涯においての転機的な出来事を意味します。たしかにあの弟子たちは、ペンテコステの日に全く様変わりしました。私たちも聖霊バプテスマにあずかるなら、自分の生き方が本質的に霊的に大きな変化を生じます。それは更に生涯が楽しく、またすばらしく価値のあるものとなります。
神様は私たちに特別な恵みを与えられます。それが聖霊バプテスマです。それは人間に理解できない言葉、異言を語ることだと言う人もありますが、私はむしろ、ローマ6:4にありますように、キリストと共に死に、新しい歩みをはじめることだと思います。自分の内的霊的生涯に、際だった変化が起こるということです。それこそ第三の天に引き上げられたパウロのように、魂は天に引き上げられ、自分の生活も天から眺めるように、鳥瞰図的に見えてきます。この世の低い次元で見るのではなく、自分のことを見るにしても、天国の神様の立場から眺め、神様の側に立って判断することができるのです。キリストならどうされるか、と考えるようになります。
もはや自分が中心になってやる必要はありません。全ては神にお任せし、すべて身を委ねて、助け主、御聖霊に明け渡すことです。そうするなら、慰め主でもあられる御聖霊は、私たちのうちに満ちあふれて下さり、不信仰不従順の思いを追い払い、私たちの内側を浄めてくださいます。
あの弟子たちも、まさに祈り求め、罪を告白し、互いに赦し合い、愛し合う中に、御聖霊は働かれ彼らを通して働かれました。あの弟子たちは、どう行動したでしょうか。自分の名誉のため、自分の欲求を満たすために生きたでしょうか。そうではありません。彼らは8節で約束されたように、地の果てにまでも、キリストの証人となったのです。証人という言葉には殉教という意味があります。まさに彼らは自分の命をもってキリストを証ししました。ペテロはローマに行き、キリストを証しし逆さ十字架に掛けられ殉教しました。あの不信仰のトマスもインドまで伝道し、多くの教会を建てそこで殉教したと言われています。彼らは喜んでキリストに命をささげたのです.パウロもそうでした。キリストの迫害者から伝道者に変わり、彼も喜んで命をささげ、義の冠が私をまっていると喜びに満たされ、輝いた生涯であったのです。
私たちは今のままで良いでしょうか。もっと輝かせていただきたい。喜びに溢れる生涯を得たい。そう思わないでしょうか。神様はそう願っておられます。きっと、私たちにも助け主―聖霊を送ってくださいます。聖霊が下られるとき、私たちも力を受けて、キリストの証人となるのです。 


                         (説教者:柏原教会牧師 西本耕一)