柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「罪からの救い」  イザヤ書59章12-20節

12月25日はキリストの誕生日、クリスマスです。その前を、教会のカレンダーでは、待降節と言っています。キリストが来られるのを待ち望む時という意味です。キリストを信じることの一番すばらしいことは何でしょうか。それは私たちが「罪から救われる」ということです。多くの人がイエス・キリストを通して救いに預かり、喜びの人生を生きておられます。私たちもその喜びを持つことができるのです。どうすれば、本当の心の喜び平安、魂の救いを得ることができるでしょうか。

1.この世の罪の現実 
旧約聖書イザヤ書を書いたイザヤとは、今から2700年以上も前にイスラエルにいた預言者です。彼は貴族の出身であり、裕福で、また祭司として神に仕えるものでした。しかし、幻の中に、彼は神殿に満ちる神の栄光を拝し、圧倒され、彼は神の御ことばを伝える預言者となったのです。その当時、イスラエルはエジプト、アッシリアの大国に挟まれ、危急存亡の中にありました。しかも、イスラエルの人は神に信頼することなく、この世のものに目が奪われ、何の希望も見いだせない中にいたのです。
そこで、イザヤは神の救いのことばを人々に語ったのです。イザヤ書にもキリスト誕生の預言がいくつか出てきますが、有名なものは9章6節「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる」であろう。救い主の誕生が700年以上も前に預言されていました。それは私たちを罪から救うためです。
私たちの心の喜びは、もので満たされるのではないと思います。日本も確かに物質的には豊かになりましたが、幸せだとはいえないと思います。「物で栄えて心で滅ぶ、ああ十字架なき日本よ」と言った方がありますが、。犯罪一つをとっても、減少するどころか増加し、凶悪化している現状です。まったく、神を神とも思わない、真の神を恐れない、あのイスラエルの人たちと同じ状態です。
13節に、神に背き、逆らい、偽り、つぶやいているイスラエルの姿があります。それは祝福を受けているにはほど遠い姿でした。私たちは、罪と聞くとすぐに犯罪を思い浮かべますが、聖書の罪はそうでなく、神に背くことであり、弱い物を虐待したり、人に反対する、嘘をついたり、心の中で不平を言うことなのです。
なぜ喜びの生活がないか、それは「罪」が神様から私たちを隔てているのです。罪が私たちを神の恵み、栄光から離れさせているからなのです。
14節に、公正、正義、真理、正直は失われてしまったとあります。今の日本も同じではないでしょうか。食品の偽装問題、年金の書き換え問題云々。全く信じられない時代の中にあります。この世では信じられるものはないのです。

2.主なる神を信頼する

聖書に主ということばが出てきます。それは神を表すことばであり、太字の主は全能の神という意味があります。天地すべてを造られた神です。
その神様はこの世の有様をみてどう思っておられるのでしょうか。15節に、「神様は心を痛めておられる」とあります。
真の神様はその有様をみて黙っておられる方ではありません。放っておかれるような方ではないのです。
16節を見ると、「ご自分から人を救おう」とされる神の姿があります。「自分の義を支え」とされ、人間の義を当てになされません。私たちにとっても神の義こそ、頼れるものなのです。
17節には神の姿があります。復讐、ねたみは普通悪いことです。それでは、神は悪を行われるのでしょうか。そうではありません。神は、ご自分に敵対するものに報いられ、報復されるのです。ですから、神を信じる私たちは、悪に対して悪を持って向かってはならないのです。「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ロマ12:21) 「復讐は私のすることです」(ロマ12:19)といわれます。神がすべてを公正に裁かれるときがくるのです。


3.罪からの救い

18,19節にはこの世に対する神の裁き、そして神の支配と勝利の姿が描かれています。黙示録見ますと、そこにもキリストの千年王国のことが語られているのです。この世にとってはキリストの再臨は裁きでありますが、信じるものにとっては大いなる救いです。
救いの神は、購い主として来られます。贖うとは、代価を払って自分のものにする意味です。イスラエルの民は神を捨てて、偶像礼拝に陥りました。そんな裏切り者をも神は、贖って下さるのです。代価を払って連れ戻し、ご自分のものとしてくださるのです。
私たちも、たとえ失敗したり、間違ったとしても神様は赦して下さいます。赦されない罪はありません。神に背いたことさえも赦してもらえるのです。
 大切なことは、失敗しない人間になることではなく、完璧な人間になることでもありません。むしろ、失敗しても赦される、私を赦し愛して下さる方がおられるんだ、と信じることです。
そのことをダビデ詩編16編8節で詠っています。
私たちも絶えず、贖って下さるお方、罪から私たちを救い赦して下さる方を信じたいと思います。イエス・キリストが私たちを罪から救うために、この世に私たちのところに来て下さったのです。信じ受け入れましょう。

                (説教者:柏原教会牧師 西本耕一)