柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「キリストの愛に帰る」エレミヤ3章21-23節

エレミヤは紀元前600年代の預言者で霊的には神に不従順な暗黒の時代、やがてバビロンによって攻め滅ぼされる中で、神の言葉をイスラエルに語ったのです。


1,偶像礼拝の罪

21節の「裸の丘」とは何か。人為的に木を切り倒し、草木をを刈り込み平らかにした所である。おそらく、偶像の神、バアルを祀って礼拝したところであろう。
そこから哀願の声が聞こえてくるのである。バアルとは五穀豊穣の偶像である。しかし、そのよう偶像を祭り拝んでも、豊にはならない。実際、イスラエルは、アッシリアに攻め込まれ、エジプトの顔色をうかがい、ついにはバビロンに滅ぼされ、捕囚となったのである。
その最大の原因は、偶像礼拝にあった。神ならぬものを神とし、まことの信仰の道を自らが曲げ、そして主なる神を忘れるような生活をしていたからである。
そして、国の荒廃を見るときにやっと、自分たちが何をしていたのか気がつくことであった。


2,悔い改め

それでは、呪いが断ち切られ、神様の祝福が与えられるためにはどうしたらよいのか。
悔い改めることである。悔い改めとは、方向転換であり、神に立ち返ることである。22節後半には明確にその言葉が出ている。
新約聖書でも、ルカ15章には放蕩息子の悔い改めが出ている。そして、彼は自分の罪を認め、そして父の元に帰り、罪を告白してその赦しを得たのである。
今日、私たちは、十字架の主キリストを神として崇めているだろうか。日々主に感謝を献げて生きているだろうか。ともすればこの世のものに心を奪われてしまって、神に対する感謝を忘れてしまっているかもしれない。ヤコブ書4:4には、無節操な人たちのことが出ている。彼らは世を愛し、神を忘れ、世の者となってしまった。しかし、警告は、おおよそ世を愛し、世を友とするなら、神の敵となってしまうことを忘れてはならない。この世ははかないものである。あの放蕩息子も金を散財し無一物になった時、一体誰が彼を助けただろうか。飢えて裸となり、泥まみれとなって彼を助けてくれる者があっただろうか。それはただ一人彼の父のみであった。
背信の子らよ帰れ、私はあなたがたの背信を癒やす。今も父なる神様は、私たちに語られ私たちが立ち返ってくるのを待っておられるのである。私たちはいつも、父なる神様に立ち返り、背信も、傷も痛みもすべてはキリストの十字架によって(イザヤ53:5)、癒やし清められる者でありたい。


                   (宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)