ここにヤコブという人が出てきます。彼はよいことをした人立派な人というよりも、どちらかといえば利己的で、自分の利益しか考えないような人でした。その彼が「幸せをつかんだ」のです。私たちも、この世にあって幸せになりたいと思います。どうすれば幸せになれるのか、このところから見ていきたいと思います。
1.ヤコブとはどんな人だったのか
ある人は彼にコブが八つあったからヤコブとなったといいましたが、そうではありません。ヤコブとはもともと「かかと」という意味です。創世記25章26節にでていますが、彼は兄エサウのかかとを掴んで生まれてきました。いわば人の足を引っ張るような人であり、そして彼は人を押しのける人でした。
彼はある日、猟から帰ってきたエサウに長男の権利を寄こすように言いました。当時は長男が家の財産を継ぐようになっていました。そして腹を空かせたエサウに豆の煮物と長男の権利を交換させたのです。非常にずるがしこい人でした。その後父親のイサクが老衰で死ぬときに、エサウに化けて欺し、長男の祝福を奪ったのです。それを知ったエサウはカンカンに怒り、創世記27章36節を見ると彼の怒りの言葉が出ています。「彼の名がヤコブというのも、このためか。二度までも私を押しのけてしまって。私の長子の権利を奪い取り、今また、私の祝福を奪い取ってしまった。」と、ヤコブの名にはもう一つ意味があります。それは押しのけるものという意味です。まさにヤコブは、人の足を引っ張り押しのける、まさに肉的この世的な人でした。もちろん、ただで済むはずはありません。殺されそうになってしまい、家から逃げなくてはなりませんでした。
彼は母リベカのふるさとハランへ逃げなければなりませんでした。彼は着の身着のままで逃げ、石を枕に野宿し、そして叔父ラバンのもとでただ働きすることになったのです。それはある意味、彼が受けるべき当然の報いであったろうと思います。肉の欲で行ったことにはそれに対する報いがあるのです。
それは神様を信じようが信じまいが、クリスチャンであろうがなかろうが、必ず受ける報いがあるのです。ガラテヤ6章7〜8節を見ると、「思い違いをしてはいけない。神は侮られるような方ではない。種を蒔けば刈り取りもする。」と言われています。ヤコブはその刈り取りをしました。わたしたちも、同じです。蒔いたものを刈り取るときがあります。
2.ヤコブの見習うべきところ
24節で、彼は1人残り、格闘したとあります。彼は苦労し、しかし、妻や子どもそして多くの財産を得ることができました。それでも彼の心には、満足も平安もなかったのです。満たされない空しさ、そして恐れがあったのです。それは彼のかつての罪でした。兄を欺し、そして祝福を奪ったことでした。それ故彼は逃げて行ったのです。そのところに彼は帰らなければなりませんでした。なぜかというと、神様との約束でした。28章15節で「あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。あなたを捨てない。」それが神の約束でした。しかし、彼は不安に感じ、そして兄エサウが400人の手下を連れてやってくることを聞いて余計に恐れたのです。殺されるかも知れない。その時彼が執った手段は、1人残って祈ることでした。自分に約束を与えて下さった全能の神と組み討ちすることでした。苦しみの祈りとはまさに神との格闘であると言えます。
私たちもヤコブにならうことは神と組み討ちをする。祈るということです。その戦いはすさまじいものであり、彼は腰骨が折られ、足を引きずって歩かなければならない程となりました。それでも彼は、手を弛めませんでした。26節を見ると「私を祝福して下さらなければ、あなたを去らせません」と言うほどに神にしがみついて行ったのです。それが後、彼の、いや彼の子孫にも及ぶ大きな祝福となりました。それを私たちは見習わないといけないし、私たちもそれを必ず体験します。それなくして神の祝福はないからです。幸せをつかみたいと思うなら、神様自身をつかむことです。
3.神が勝たせてくださる
その人は名を尋ねました。彼はヤコブと答えたのです。彼はかかとを掴み、そして押しのけるものだったのです。 しかし、その方は、もうヤコブではない。イスラエルだと言わたのです。直訳では、神に争う、勝つと言う意味になります。自己中心的な肉の人がなんとイスラエル(神の皇太子)となる、驚くべきことでです。彼は腰骨を折られて勝利しました。それは自我が砕かれて、勝利が与えられることを意味しています。私たちも自分のかたくなな自我が砕かれなければ本当の喜びがわからないのです。逆に自分の我が砕かれるとき、たとえ何もなくても、神を喜び神に感謝する思いが湧きあがってきます。そこに魂の勝利が与えられるのです。
神はヤコブを勝たせて下さったのです。神はわざと負けて下さったのです。そして神は私たちにも勝利を与えてくださいます。一人子イエスキリストを十字架に付ける程に私たちを愛して下さっておられるのです。ヤコブはそこで神を見ました。それは彼にとって救いの日新しい夜明けでした。
私たちにも、神の新しい夜明け、祝福の朝が与えられます。
(説教者:柏原教会牧師 西本耕一)