イエス様が親しくしていた3人兄弟の弟ラザロが危篤状態になりました。その知らせが来たときにイエス様は意外なことを言われました。ヨハネの福音書11章4節「死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです」と言われました。そこには神を信じることの無限の可能性、そしてきぼうがあるのです。
1.誰にでも復活は必要です
ラザロに二人の姉がありました。マルタとマリヤ対照的な二人です。姉のマルタは行動的で、イエス様が来られると聞くとすぐさま迎えに出ていき、マリヤは家で座っていました。以前イエス様が弟子を連れてこられたとき、マルタはもてなしをし、マリヤは主の言葉を聞いていました。お世話することも大切であるが、最も大切なことは聞くことであるとイエス様は言われたのです。私たちもまず、聖書に、神のことばに耳を傾けたいものです。姉のマルタは快活で行動的な人でした。しかし、それでも彼女にはショックだったのです。21節を見ると「ここにいてくださったなら、死ななかったでしょうに」ということばに表れています。そのマルタに主はよみがえると約束されました。しかし、マルタは「よみがえる時によみがえることを知ってます。」と言いました。それは単に知識として知っているということです。そこには、確信に満ちたきぼう喜びがありません。ですから、私たちには復活のきぼう励ましが必要なのです。私たちは喜びと確信に心満たされたいと願います。あなたはそう願わないでしょうか。
2.復活の真実があります
ラザロは死んで四日たっていました。もうそのままで生き返るのは不可能です。蘇生することもありますが、暑い地方では腐敗も始まり不可能でなことです。もしよみがえるとするならそれは奇跡でしか起こりえません。主はマリヤをも呼ばれました。そして彼女たちが悲しんでいるのをご覧になって、死に対して憤りを覚えられました。そしてどうされたか。死んだラザロをよみがえらされたのです。それは、神の業であり、死に勝利された証拠でした。キリストは死に打ち勝ち、よみがえられることを実証されたのです。多くのユダヤ人もそのことを通してイエス様を信じました。(45節)それによって、信じる者はよみがえる、復活することを表されたのです。事実ほど確かな証拠は他にありません。後に律法学者パリサイ人たちは、イエス様だけでなく、よみがえったラザロをも亡き者としようとしました。それだけ彼の人々に与えた衝撃は大きかったのです。私たちもこの真実を真摯に受け止めたい。復活の命があることを信じましょう。
3.復活にはきぼうがあります
イエス様は、しょうがなく信じていたマルタにはっきりと私はよみがえりです。と証しされた。しかも、信じる者は死んでも生きると約束されたのです。
そのキリストのことばにより、マルタは変わりました。知識として復活を知っていることから、死んでもよみがえらせて下さるキリストを信じる、そのような人に変えられていったのです。
私たちも変わります。「復活を知っている」から、「復活する、そのことを信じます」。そのように変えられるのです。
アメリカで鉄鋼王と呼ばれた、アンドリュー・カーネギーがいました。彼はスコットランドからの貧しい移民の子として週給1ドル20セントで糸紬をしていましたが、やがて世界一の製鉄会社を築く成功者となったのです。しかし金の亡者となり、労働者の賃金は低く抑えられ、たびたび賃上げデモがあったようです。そんな彼も、最愛の娘さんの死を通して永遠の命の尊さ、復活のきぼうを見出し、変わりました。
彼はなんと、自分の製鉄会社を売却し、カーネギーホールの建設や、図書館を建てるため、また学校建設に私財を投じたのです。100年前の時代に3億5000万ドルを投じました。大変な金額です。彼は金の亡者から、人に勤勉の意欲を与え、励ます人と変えられました。彼もまた、娘さんの死を通して、永遠の命、天国で生きる価値のすばらしさを見出したのです。
復活は私たちに希望を与え、そして悲しみを喜びに変える力があります。私たちも神の栄光を見させていただきましょう。
(説教者:柏原教会牧師 西本耕一)