柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「主よ、お言葉を下さい」ルカの福音書7章1-10節

聖書の中には、人が癒されることがでています。特にルカの福音書にはよくでてきます。この福音書を書いたルカは医者であり医学の知識も持ち合わせ、論理的に考える人でした。しかし、それでもイエス様の奇跡の業を認め、信じた人です。

ここにローマ人の百人隊長の話が出てきます。部下が100人もいるローマ軍の指揮官です。彼はイスラエルの人ではなかったのですが、イエス様は彼の信仰を褒めました。(9節)それだけでなく、病気で死にかけていたしもべが癒され元気になったのです。なぜそんなこと起きるのか、私たちに与えられる神の恵みは何かを見ていきたいと思います。


1.愛の動機

百人隊長には愛の動機があったのです。この隊長は、部下のローマ人ではなく、ユダヤ人の長老を送りました。普通なら部下のローマ兵を送るのですが、そうしなかったのです。しかも、その長老たちは4節を見ると熱心にお願いしているのです。それもその当時ではあり得ないことでした。普通ユダヤ人はローマ人に好意的ではありませんでした。しかし、長老たちは「国民を愛し、会堂を建ててくれた。」と賞賛しているのです。私たちは会堂を建てたから、立派な人だと考えます。しかし、百人隊長は違いました。建てたことより、国民を愛することの方が大きな意味があります。
この愛は親愛の情を表す愛ではなく、アガパオーと言う言葉が使われています。それは「愛される価値のないものを愛する」と言う意味があり、「私にとって何よりも大事だ」という主体的な愛があるのです。病気で死にかけのしもべに何の価値があるでしょうか。しもべとありますが、奴隷です。変わりの者を探せばいくらでもいます。しかし、隊長にとってはかけがえのない存在でした。そのようにしもべを扱い、ユダヤ人に尊敬されていました。愛は人を動かし、神をも動かすのです。


2.神の前にへりくだる

6節で百人隊長は「資格は私にはありません」と言っています。ユダヤ人の長老たちは4節で「資格のある人」だと証言していたのにです。当時ユダヤ人は異邦人を迎え入れること、交わることを忌み嫌っていました。そのことを隊長は知っていたのです。ローマのやり方でなく、むしろユダヤに溶け込もうとして、文化や風習も心得る、寛容な人であったようです。そして、自分は異邦人であり、資格はありませんとへりくだった人でした。聖書に「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」(ヤコブ4:6)とある通りです。
そして何よりも、主よと言っています。イエスを主、すなわち神と認めているのです。真の謙遜は頭をペコペコ下げることではありません。神の前に自ら無きに等しいものであることを認め、神の御手が動かされないなら何一つ自分はできないと自己の無能に徹し、神を信頼し、神の全能の御業に全てを委ねるもことです。それが謙遜です。


3.神のことばへの信頼

7節で「ただ、おことばをいただかせてください」と隊長は言いました。そこに彼の信仰があります。「来て下さい。癒して下さい」ではないのです。「わざわざおいでくださいませんように、ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます」それが彼の信仰でした。
彼は軍人であり、言葉の命令の確かさを知っていました。指揮官の命令には命がかかっています。それによって生きるも死ぬも決まるのです。
ヨハネ福音書1章1〜3節を見るならキリストが創造の神であったことが分かります。そして権威ある方が、光あれと言えば光が与えられ、地よ現れよと言えばそのようになる。彼はキリストへの絶大な信仰信頼があったのです。
その信仰をイエス様は褒められました。私たちも百人隊長にならいたいものです。その愛、謙遜、そして信仰。神のお言葉さえ来れば必ずなる。「主よ、おことばをください」私たちもそのように求めさせて頂きましょう。


                          (説教者:柏原教会牧師 西本耕一)