柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「心の一新」 ローマ人への手紙12章1-2節

ローマ書12章1節に「…ささげなさい。…礼拝です。」と言葉がありますが、献身と礼拝について語られているとことです。


1.礼拝の大切さ
私たちは教会に来て人と会います。そしてもう一つ、神との出会いがあります。ほとんどの人は、人の出会いを大切にしますが、もっと大切にしなければならないのは、神との出会い、神との交わりです。1節に、神の憐れみとありますが、私たちの心に愛と憐れみ、優しさがなければ、殺伐とした人生になるのではないでしょうか。
新聞に、新教員の退職が5年で2.7倍になったとありました。主な理由は病気で、これも10倍になっていました。その病気とは、ストレスから来る精神疾患です。私たちには安息が必要です。心に安らぎを得なければ、生きていけないのです。
私たちは、偶然に生まれ、偶然生きているのではありません。神が私たちを造られ、そして生かして下さっているのです。神から離れて自分の力で生きようとするところに無理をしているのではないでしょうか。全能の神に全てを委ねることによって私たちは楽になれるのです。
礼拝とはまさに、神に会うことです。しかし、神は肉眼では見れませんが、聖書を通して知ることができるのです。聖書は自分で読んでも解らないことがあります。一番手っ取り早い方法は、礼拝に出ることです。礼拝でメッセージを聞くことによって神がわかってきます。
11章36節をみると、人が神を礼拝する理由が解ります。神は全ての生きるものを造られ、十字架によって救を完成され、救われた私たちは、死ぬなら天国に行き、神をほめたたえることができるからです。だから、私たちは神をあがめ礼拝するのです。
そして、パウロはここに一つの大切なお願いをしています。それは、身体をささげることです。実はこれは、あることと比較して出てきていることではないかと思います。それは、旧約聖書との比較です。旧約聖書では、神のささげものは人ではなく、動物でした。羊や山羊、牛がいけにえとしてささげられました。ところが、イスラエルの人はいい加減なことをしたのです。神様を悲しませてしまったのです。それはマラキ1章8節から10節を見ると分かります。なんと彼らは目の見えない、足の萎えた病気の動物をいけにえとしてささげたのです。それは喜ばれるはずはありません。私はあなたがたを喜ばない、とはっきり神は言われました。
それと対照的に、パウロは動物のいけにえではなく、あなた自身を神にささげなさいと言っているのです。からだとありますが、私たちのこの肉体を指しています。私たち自身が神の前に出ることです。つまり、私たちが今礼拝に出てきていることが身体をささげることなのです。


2.この世に引き込まれない
調子を合わせるとは、外見が同じという意味があります。流行と言うことです。今でも多くの人が流行に翻弄されています。水の上に浮かぶ舟も水が入ってしまうと沈んでしまいます。クリスチャンも、この世の思いが心に入ると、この世に沈んでしまい、自分を見失ってしまいます。
そのために、私たちは神に喜ばれることが何か、何がよいことなのかを知る必要があります。この知るという言葉には、試験して調べてみるという意味があります。つまりは、試みを通して、真実が明らかにされると言うことです。試されて本物か偽物かわかります。金も炉で熱せられて純度の高いものか、混ざりものがあるかが分かります。信仰も同じです。試練を通して、神を信じているかどうか明らかにされるのです。


3.心の一新によって変えられる
もし、自分の心が清くない、力もなく活き活きとしていないとするなら、変えられる必要があります。
ストレスを感じているのは学校の先生だけではなく、多くの人が不安を感じています。私たちは救われなければなりません。心の一新によって変えなさいと聖書は言っています。
もし、私たちの心に、いつまでも人をゆるせない、いつまでも自分の罪を責める思いがあったり、大事な人や大切なものを失ったという喪失感や自分には価値がないと思う心があると、ストレスとなり、自分を不安に陥れてしまいます。「心の一新」とは、イエス・キリストを信じて変わることです。今までは、自分を人生の主として自分の力でやってきましたが、これからは心を入れ替えて、心の王座をキリストに明け渡し、全ての思い煩いをキリストに委ねることです。イエス・キリストを信じて、あなたの重荷を譲って下さい。キリストは解決し、力を与え新しくして下さいます。

                            (説教者:柏原教会牧師 西本耕一)