柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「キリストとの出会い」使徒8章26-38節

普通日本人は、家が仏教だから自分も仏教だといいます。しかし、信仰は個人的なものであり、私たち一人ひとりの心でのとらえ方、決心にあるのです。この所にひとりのエチオピア人の救いの話しが出てきます。彼はユダヤ人ではありませんでした。しかし、イエス・キリストを信じて救いにあずかることができたのです。


1,神様は人を用いられる

このエチオピア人を救うために神様はピリポを用いられました。人の魂を救うには、神様は必ず人を用いられるのです。彼はまた使徒ではありませんでした。しかし、「御霊と知恵とに満ちた、評判の良い」(使徒6:3)人でした。そのような人を神様は用いられます。なぜなら、神様の語ることを聞くことができ、神様が命ぜられたように従うことができるからです。ここでは、主の使いや御霊が彼に語っていますが、今私たちは神の御言葉―聖書と聖霊によって行動することができます。
御言葉を伝えるのは、牧師だけの働きではありません。500年ほど前の宗教改革のとき、ルターはすべての人が神に仕えることができると「万人祭司」説をときました。すべての人と言ってももちろんクリスチャンですが、救われた人であるならば、聖霊の助けをいただいて神様のことを語ることができるのです。
何と彼は、馬車に乗っているエチオピア人の宦官をみて、馬車に併走して声をかけたのです。旧約聖書の時代ソロモン王のとき、エチオピアシバの女王がうわさを聞き本当かどうか確かめに来たのがことの始まりであったようです。シバの女王はソロモンのすばらしさを目の当たりにし、沢山の贈り物をいただいて帰りました。それ以来エチオピアユダヤの交流があったようです。
宦官もエルサレムの神殿で礼拝をささげ、帰途の途中でした。彼はちょうど、旧約聖書を開いていましたがまったく理解できませんでした。


,聖書を通してキリストを知る

そのところに、ピリポが来たのです。それはまさに、神様の配剤でした。宦官はイザヤ書53章7,8節を読んでいました。しかし、彼ひとりでは理解できなかったのです。聖書が難しいと言われるのは今も昔も同じです。おそらく当時エチオピアでは聖書は入手できても、教える人はいなかったと思われます。 ですから彼には教えてくれる人が必要であったのです。宦官は心の中で求めていたかもしれません。その時にピリポが現れたのです。彼はピリポを馬車に入れて、教えを願いました。
ピリポは、この聖書の箇所をとおしてキリストを伝えたのです。今も原則は同じです。聖書の言葉からキリストを語ります。なぜなら、聖書自身がキリストを証しし、その救いを伝えているからです。
おそらく、ピリポはキリストの降誕や十字架のこと、そして復活のこと罪の裁きと救いを御言葉を通して語っただろうと思われます。これは個人伝道のときでした。魂を救うのは神様です。そして、神様は人を用いて,聖書を通して語られるのです。
私たちも、どんなチャンスがあるか分かりません。しかし、神様のときが必ずあるのです。救いを求めて呻いている魂、求めている魂があるのです。私たちはピリポの様に、御霊と知恵とに満たされている必要があります。評判の良い、すなわち神様の愛に満たされて、イエス様のようにいつも困っている人をいつも助けることができる必要があります。その時に聖霊は働いて私たちを用い、魂を救われるのです。すなわち、キリストとの出会いがあるのです。この宦官は救われました。そして、直ぐ洗礼を受けました。彼は帰ってキリストを伝えたでしょう。彼もまた、エチオピアでイエス様の証し人として用いられたでしょう。後、エチオピアにもキリスト教の教会が誕生したのです。私たちもまた、整えられて、キリストの出会いを提供する者にさせていただきたいと思います。

            (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)