柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「祝福に満たされる」マラキ3章7-12節

私たちは礼拝の中で献金をします。なぜ献金があるのかを今日は聖書の言葉を通して考えて見たいと思います。


1,神様に感謝をささげる

読んでいただいた聖書の中に、十分の一という言葉が出てきます。いったい何の十分の一かというと、私たちが収入として与えられたすべてのものの十分の一ということです。旧約聖書では「地の十分の一は,地の産物であっても,木の実であっても,みな主のものである.それは主の聖なるものである」(レビ27:30)と律法によって命じられていたのです。
もちろん、すべてのものは神様によって造られました。しかし、神様は私たちに得られたもののすべてを献げよとはいわれません。十分の一をもって献げよと命じておられるのです。
聖書の中で最初に十分の一をささげたのは信仰の父といわれたアブラハムでした。彼は甥のロトが捕らわれの身となったときに救出に向かいました。彼は勝利し、そしてサレムの王メルキゼデクから祝福を受けました。メルキゼデクは神の祭司であり、キリストの雛形ともいわれています。このときに、アブラハムは十分の一のささげものをしたのです(創世記14:20)。
いわばそれは、感謝のささげ物でした。自分を幸福にしてもらえるようにと願ってする賽銭のようなものではありません。与えられたものを感謝して献げるのが十分の一のささげ物―献金です。ですから、神様に救われた、新しいいのちに生かされて、収入が与えられた人は十分の一のささげ物をします。教会では月定献金(什一献金)と呼んで、決まったものをお献げします。それは、神様のものをお返ししますとの感謝の表れです。信仰の父アブラハムはまず、そのことをしたのです。
ところが、イスラエルの民はそれを怠りました。それどころが、神ならぬものを神とし、偶像礼拝におちいり、さらには国が分裂しついにはバビロンの補囚となったのです。
補囚から帰って来た人たちは、エルサレムの復興神殿の再建にあたりました。その中で、マラキは復興について、神のもとに立ち返ることをイスラエルの民に語ったのです。神のもとに立ち返ることとはまず十分の一のささげ物と奉納物によってであると語りました。
私たちは、十分の一のささげ物と共にまた特別に感謝献金をします。臨時収入があった。その時にはまた、感謝をもって献金をすることができるのです。


2,信仰のチャレンジ

私たちは神様を試してみてはならないのですが、唯一、このところで「ためしてみよ」といわれます。どのようにして試すのかというと「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、」とあります。そのことによって「あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ」と言われるのです。そのことはまた、私たちの信仰のチャレンジとなります。聖書の中を見ますとき、イエス様が十字架にかけられる前に、ナルドの香油を注いで、葬りの用意をしてくれたとイエス様に喜ばれたことが記されています(マルコ14章)。
また、マケドニアの諸教会が力以上に献げた事が、多くの教会の励まし、力となったことが語られています(?コリント8章)。
私たちにも、神様はチャレンジを与えられます。私たちが信仰を持って献げるときに、神様はそれ以上に私たちに祝福を与えて、またすべての災いから守って下さいます。そして、そのことを通して、私たちは祝福されている者、神に喜ばれているものであることが証しされるのです。


      (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)