柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「愛の現れ」  ローマ5章6-11節

9月最初の日曜日は、振起日礼拝と言っていました。実りの秋に向かって私たちも豊かにさせていただきたい、様々なこの世の現実から信仰をもって立ち上がらせて頂きたい。その願いを持ちつつ主を礼拝しましょう。


今日は愛の現れと題してお話しします。それは8節に「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」とあるからです。神の愛が私たちに明らかにされている。現されていると聖書は言っています。


1.キリストの現れ

6〜11にはキリストという言葉が4回出てきています。キリスト教の中心は何かというとキリストです。
よく、キリストを見せてくれ、そうしたら信じると言われることがあります。人は見えるものを信じようとします。見えないものは信じられないというのです。しかし、イエス・キリストはこの世に来られました。キリストは信じられないという人があっても、キリストは架空の人物だという人はいません。学校の教科書にもでてきます。歴史も西暦の年号を使います。世界共通です。それはキリストの誕生を起源にしているのです。英語の言葉ヒストリーは、His Storyから来ていると言われています。すなわち彼とはキリストです。歴史でB.C.とはBefor Christの略であり、A.D.はAnnoDmini主の年というラテン語からきているのです。キリストの誕生を境にして人類の歴史は大きくかわりました。それは私たちの人生も、イエス・キリストを信じることによって大きく変わってくるのです。キリスト(救い主)は現実に私たちの歴史に現れたのです。

2.愛の現れ

8節に神は私たちに対して愛を明らかにしておられると言っています。神の愛は、この世の現実として現れていると、パウロは言っています。彼もかつては神の愛が解りませんでした。聖書は読んでいましたが、神ご自身がどんな方かも解らなかったのです。しかし後、彼は神の愛を体験しました。私たちも必ず分かるときが来ます。ある人は「神が人を愛しておられるなら、なぜ人間はこんなに苦労するのだ」と言いました。苦労がないことが幸せとは限りません。むしろ苦労しなければ得られないものがあります。「忍耐が練られた品性を生み出し」と4節にありますが、私たちの人格も苦労がなければ磨かれないのです。
十字架はキリスト教のシンボルマークです。そしてそれは一般でも使われています。しかし、十字架はもともと死刑の道具でした。生きたままの人間を磔にする残酷な死刑の道具でした。それで3世紀頃までには廃止されました。そんな残酷な道具が、今の時代若い娘さんの首にも掛けられているのです。愛のシンボルとなったのです。死刑の道具が愛のシンボルと変わりました。それは「キリストが私たちのために死んでくださった」と事実によるのです。十字架の死は私たちのためだったと、あのパウロがそう語っているのです。
6節には私たちが弱かったとき、不敬虔な者のために死んで下さったとあります。不敬虔とは、神を神として認めない、神にそっぽを向いていると言う意味です。それは8節の罪人と同類です。全く神を無視して自分勝手に生きている人間の姿です。でもキリストはその人のために死んで下さったと聖書は言っています。私たちの普通の感覚でしたら、正しい人のためにでしたら死ねるかも知れません。或いは、大変お世話になった人にでしたら喜んで命までもささげましょう、となるかも知れません。7節にはそんなことが語られています。しかし、不敬虔な者や罪人のために命を投げ出すことは考えられません。私たちにはできないことです。しかし、神はそんな不可能なことをも成し遂げられました。

3.神を喜ぶ現実

私たちは神を喜ぶことができます。いや、神様が私たちを神を喜ぶことができるようにして下さいます。クリスチャンの喜びと言うのは、ひと言でいうと「神を喜ぶ」と言うことです。神が良いことをして下さったから嬉しい。商売が繁盛したから、病気が治ったから嬉しい。それだけのものではありません。むしろ神ご自身を喜ぶのです。それは、与えられた賜物を喜ぶのではなく、「与え主」である神ご自身を喜ぶのです。
旧約ネヘミヤ記に「主を喜ぶことはあなた方の力です」(ネヘミヤ8:10)とあります。ネヘミヤは敵が襲ってきても、工事が困難でも、「神を喜ぶ」それが原動力となり工事を成し遂げました。もし生活に活力が抜けてしまっているとするなら、それは「神を喜ぶ」と言うことが欠けているからではないでしょうか。
しかも私たちは、キリストの十字架の愛を喜ぶことができるのです。それは私たちが、弱かったとき、罪人であったときにキリストが命を捨てて下さった。私たちが知らないときに、私たちのために死んで下さったからなのです。
私たちは、かつて神の敵でした。神の愛も、罪の赦しもわからない人間でした。しかし、神は愛する一人子の死をもって、私たちを赦し、救って下さったのです。神はもはや、私たちを空しい独りぼっちの人生から、喜びの生涯へと導いて下さっているのです。主をほめたたえましょう。

                       (説教者:柏原教会牧師 西本耕一)