柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「愛のうちに歩む」エペソ人への手紙 5章1~2節

 今日は教会のカレンダーではシュロ(棕櫚 )の日となっています。イエス・キリストがロバの子の背中に乗ってエルサレムに入城されたとき、大勢の人が沿道に詰めかけ、シュロの葉を敷き、ホサナ、ホサナ (王様万歳)と歓声を上げて迎えたのです。ここから十字架の死に向かって歩む受難週が始まります。

 

1,神に愛されている

 

 1節に「愛されている子どもらしく」とありますが、クリスチャンは言うならば、神の子どもです。エペソは偶像礼拝の盛んな町でした。そこにキリストの救いが伝えられたのです。そして私たちは「神の子ども」である。すなわち父なる神、創造主である神様が愛して下さる子どもであると言うことです。それが信仰の中心なのです。

ヨハネは、「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して下さった、ここに愛がある」(Ⅰヨハネ 4:10)と言ったように、愛の始まり愛の原因は神にあるのです。そして私たちは「神の子」である。子は親に養われる者です。赤ちゃんが親を養うことはあり得ません。また、小さい子どもが親を世話することもできないのです。

ですから私たちは何か良いことをしようとするのではなく、愛される対象なのです。子どもは親の愛を受けて成長します。それと同じように、私たちも救い主イエス・キリストを信じた、と言うなら、私たちも「神の子」となって神様の愛をいっぱいに受けて、愛の中に成長すべきものです。それが神様の喜びです。親が子どもの成長を見て喜ぶのと同じように、私たちも神の愛のうちにあって成長する。それを神様は喜ばれるのです。

 

2,神に倣う者となる

 
 そして、成長することは何か。人に認められるような立派な行動や、成果を上げることではありません。パウロは「神に倣う者となりなさい」と勧めています。神に倣うとは、キリストに似た者となる、と言うことです。

キリストはどうであったのか。最期の晩餐の時、弟子たちの足を洗われて手本を示されました。弟子の前に、手ぬぐいを腰にからげて跪き、一人ひとりの足を洗われたのです。そして、弟子たちに「わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」と言われたのです。

それは今日にも至っていることではないかと思います。 教会によっては受難週に「洗足式」を行う教会もあります。(例:ある方は自分の苦手な人と組みになって互いの足を洗ったとき、自分の愛のなさが心に示され、神の前に悔い改めて、キリストが改めて自分を愛して下さっていることが分かったと証しされました。) 言うことは簡単ですが、実際に行うことは難しいと思います。

 

3,愛のうちに歩む
 
 ですからパウロは「愛のうちに歩みなさい」と言いました。それは私たち自身の愛ではなく、キリストの愛です。キリストが私たちを愛して下さり、自らが犠牲となって下さったのです。

 「芳ばしい香り」とありますが、神殿では動物の犠牲、羊や牛などが殺され祭壇の上で全焼のいけにえとして献げられたのです。それが「芳ばしい香り」です。

旧約聖書では、祭壇でいけにえが献げられるのですが、新約の恵では十字架です。イエス・キリストが私たちの全ての罪を十字架で負って下さり、磔になり、血を流して下さって私たちの罪を赦されたのです。キリストの愛とは十字架の愛です。犠牲になることです。人のために自分のいのちを捨てることです。その十字架の愛によって今、自分は生かされているそのことを信じるのが私たちの信仰です。行いによって救われるのではありません。御子を信じる信仰によって救われ、生かされているのです (ガラテヤ2:20)。

パウロはそのキリストの愛のうちに歩みなさい。生活しなさい。キリストの愛によって生きなさい。とエペソの人たちを励ましたのです。

 今、困難な現代に生きている私たちですが、私たちもまたこのキリストの愛のうちに生かされ、神の愛と憐れみの中に生きる者、心が愛で満たされる者とさせていただきましょう。

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)