柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「神との平和」 ローマ人への手紙5章1-5節

8月と言えば、私は広島長崎の原爆ことや終戦記念日を思い出します。今年に限れば、北京オリンピックの話題が多かったように思います。
水泳の北島選手の活躍もありましたが、ソフトボールと野球の結果が対照的でした。優勝は無理だと思われていたソフトボールが金をとり、有力視されていた野球はメダルにも手が届きませんでした。せめて銅でもと思っていましたが、銅にも手が届かない、どうしょうもない結果でした。ある人は「ハングリー精神の差だ」と言っていましたがそうしたことが人間にはあると思います。
聖書に「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」( マタイ7:7 )とあります。最後まで勝利を信じて、諦めないところに栄冠を勝ち取る秘訣があるのではないでしょうか。争いの多い世の中ですが、信じて諦めないで平和の栄冠を勝ち取りたいと思います。
今日は聖書の中から、神との平和ということについて考えてみたいと思います。


1.なぜ神との平和か
普通に考えるなら人と相和す、仲良くすることを考えますが、聖書は神との平和と言っています。実はこの「平和」と言う言葉にカギがあります。この平和は、単に争いがない、平和であると言うだけの意味ではありません。
旧約聖書にヨブと言う人が出てきます。神に忠実な人であり、子どもも財産も豊かに持っていました。しかし、一夜のうちに全てを失い、重い病気になり奥さんからも見放されてしまったのです。そんな彼に色んなことを言う友人が来ました。その一人エリファズという人は「あなたは神と和らぎ、平和を得よ。そうすればあなたに幸いが来よう」(ヨブ22:21)と言っていいます。平和と言う言葉はヘブル語ではシャロームと言う言葉です。それは単に、争いがない、戦闘状態じゃないと言うだけの意味ではなく、もっと深い意味があるのです。
それは、豊かに与えられた、満足しきっている生活状態を表す言葉です。満ち足りた生涯です。たとえばコップに水を入れます。いっぱいになります。それにさらに水を入れるとどうなるか、溢れ流れます。いわばシャロームと言うのは、満ち満ちてあふれ流れ出る豊かさを表しているのです。詩篇65篇12,13には、神の恵みと祝福がいっぱいに満ちあふれている様が歌われています。
聖書の神はシャローム(平和)の神です。たとえて言うなら、乳飲み子にとって一番必要な存在は誰かというと、お母さんです。お母さんなしに、赤ちゃんは生きていけません。神と聞くと多くの人は八百万の神を考えます。それは人間が作った神であり、全能の神ではありません。聖書の神は、天地万物を造り、人をも創造された方です。その神を多くの人は知りません。そして離れています。それはまさに、赤ちゃんが母親から離れて自分の力で生きていこうとするようなものです。それで、健全に生きていけるはずはありません。赤ちゃんは母親によって育てられるものです。人間もまた、神様の愛、恵みを豊かに頂いて成長するものです。
赤ちゃんはお母さんと争っては、生きていけません。絶対勝ち目はないのです。おっぱい取り上げられたら生きていけません。ですから人間も、私たちを造り、生かして下さる神様と争っては生きていけないのです。まず神を信じ、そして全てを神に委ね豊かに養われることです。


2.平和がもたらすもの
神との平和は私たちにすばらしいものをあたえます。

(1)患難さえも喜ぶ

神様を信じたら苦しいことはなくなりますよとは、聖書は言っていません。それよりも、その患難さえも喜ぶと聖書は言っているのです。なぜ艱難を喜べるのか、それは忍耐を生み出すからだと聖書は言っています。NHK朝ドラ「おしん」はいまでも海外で放映されているそうです。特に発展途上国では、人気があり、再放送もされています。それは、日本のめざましい経済発展復興の力は忍耐にあった、と海外の人は見ているからだろうと思います。もし、困難と言うことがなければ「おしん」というドラマは生まれなかったでしょう。患難なくして忍耐は生まれません。しかも聖書のこの忍耐という言葉は、じっとガマンして耐え忍ぶというより、不屈の精神をもって困難に向かっていくと言う意味があります。困難を避けて通っていって、成長することはありません。練られた品性とありますが、「あの人は良くできた人だ、苦労人だからな」と言われることがあります。それは、そうした試練を経ることによって人間の品性は磨かれ輝いて来るからです。それは無駄にはなりません。いやな人が近くにいても、その人が磨ぎ石だと思えば感謝な心も生まれます。(箴言27:17)

(2)希望は失望に終わらない

練られた品性から希望が生み出されます。きびしい、困難の中にある希望こそ、本当の希望だと言えます。失望に終わらないとは、恥を掻かせられないとも訳される言葉です。神様は恥をかかされません。必ず勝利の栄冠を与えてくださいます。
それは、勝利の栄冠を保証してくださる方がいるからです。イエス・キリストです。「キリストによって」と1,2節にはあります。キリストがその希望を与えてくださるのです。5章は「ですから」、と前の言葉を受けて始まります。前にはなんとあるか。「罪のために死に渡され、義と認められるためによみがえられた」とあります。キリストの十字架の死と復活のことです。それによって私たちの罪は全てゆるされ、死んでも天国で新しく生きる希望が持てるのです。
2000年沖縄の日本伝道会議で、沖縄キリスト教短期大学の金城重明教授が証しされました。沖縄での集団自決は決して自分たちの意志で行ったものではないことを知りました。私にとっては大きな衝撃でした。しかし、戦後イエス・キリストのことを聞かれ、救いに与られ生きる希望があたえられたことは大いなる幸いだと思います。
私たちも生きる目的、希望を失うことがあるかも知れません。
その時にこそ、私たちを造って下さった神と和解し、平安を頂きたいと思います。そしてキリストの新しい命に生かされ、御聖霊に神の愛を注いでいただき、満たされて生かして頂きましょう。


                           (説教者:柏原教会牧師 西本耕一)