柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「主が来られるまで」第1コリント4章1-5節

今日のテーマは「主が来られるまで」です。

わたしたちは、毎週主日に礼拝を守っています。これは主の復活を記念しているわけですが、同時に、再び来てくださる主を待ち望んでのことで、礼拝は、信仰による希望を表しているとも言えます。
初代教会の礼拝は、主がすぐにでも来て下さると言う期待に包まれての礼拝であったと想像されます。
あれから2000年を経た教会は、再び来て下さる主についての発言に慎重になっています。しかし、約束が反古にされたわけではありません。わたしたちの信仰は、そして主の日の礼拝は、今もこの約束にしっかりと結びついていなければ命を失います。
だからと言って、現実を放棄するほどの過激な再臨信仰は、危険なだけで益はありません。日常の営みを見失わないで主の再臨を待ち望む姿勢が必要です。聖書は、パウロの歩み・生き方を通してそれを語っています。


1.人間を誇ってはならない

3章21節で「だれも人間を誇ってはいけません」と記しています。
信仰の世界は神に向かう世界であり、神を礼拝することですから、人間を誇らないということは当然のことであり、また重要なことです。
コリントの教会では、見えない神よりも、見える人間が大きな存在となり、そのことが教会の中で問題となっていました。そこで、教会における伝道者・牧師の身分とは何か、またクリスチャンとはどのような者かを語ります。
そこで「こういうわけで」と言って、教会の秩序を語り始めます。
教会の交わりの中で人を尊敬することは間違っていません。しかし、彼らはいささか度が過ぎていたようです。
そこで、彼らが過度に尊敬している伝道者とはどういう存在なのかといえば、「神の奥義の管理者 1節」と考えるのがよいと言います。
管理者とは、特別な存在ではなく、任務として与えられているのであって、これは身分の問題ではなく、秩序の問題です。伝道者パウロが、アポロが、特別な存在と考えることは間違っているということです。


2.忠実な生き方
次に、管理者に求められることは「忠実であること 2節」と記しています。ここに記されていることは、直接にはパウロことであり、伝道者のことであると思われますが、信仰者全体にも言えることで、忠実さはすべての信仰者に求められ、期待されていることです。信仰というものは、ひとり自分が道徳的に清くあれは良いということではなく、神に対してどのようにあるのか、神にどのように向かうのかと言うことだと思います。
それでは、神に向かうこと、神への忠実さを誰が計るのかということですが、これも人が決めることではないでしょう。わたしたちお互いの間のことは別としても、神に対してあの人が忠実で、この人は忠実ではないと、人間が決めることではありません。
パウロは「私にとって、あなた方による判定、あるいは、おおよそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分を裁くことさえしません。 3節」と言っています。
一方、わたしたちはと言えば、人の目ばかり気にしています。つまり、人の判定・人の評価が気になるのです。
ところがパウロは、自分を裁くこともしないと言います。何と大胆な発言だろうかとさえ思われますが、それは、人の前に生きているのではなく、神の前に生きているからです。ここに人としての本当の生き方があります。


3.裁く方は神
私にはやましいことは少しもありません。 4節」とは、自信過剰な生き方をしているかのように思われそうですが、それほど彼は自惚れ屋ではありません。なぜなら、「だからといって、それで無罪とされるのではありません。 4節」と明言しています。すなわち、人が義とされる根拠は、自分の業ではないと語っているのです。
信仰生活で大切なことは「義とされる」ということです。
信仰を持つということは、神によって救われることです。そして、救われるとは、神の前に義とされること・神から義と認められることです。これは信仰生活の初歩的部分ではなく、信仰者の毎日の生活に係わることです。きょうも平安な思いで過ごせるのは、信仰によって義とされているからなのです。
義とされると言うことは、信仰生活の出発に必要なだけではなく、日々この事実が力となり希望となるのです。なぜなら、それがわたしたちを義としてくれるものではないからです。
私をさばく方は主です。4節」とパウロは言います。主イエスだけが、自らきよくあられるだけでなく、その十字架によって、人をきよくすることの出来る方、義とすることのできる方なのです。


4.先走りしてはいけない
そこで「主が来られるまでは、何事についても、先走ったさばきをしてはいけません。5節」と言います。
先走ったさばき」とは、主に先んじてと言うことです。ですから「主が来られるまで」と言うことになるのです。物事の判断は、すなわち裁きは主に委ねるべきです。
コリントの教会がそうであったように、一方を過度に尊重するということは、結果的に他方を疎んじることになります。疎んじるということは、そこで一つの裁きを下していることでもあります。
そこでパウロは、主が来られるまでは先走りしてはいけない、と言うのです。そして、神が裁きをなさると言うことは、人には見えない「やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。5節」と語っています。
ところがここに「そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。」と、思いがけないことが記されています。想像していなかった結論がここに導き出されています。それは、コリントの教会が、やれパウロが立派だ、やれアポロが立派だと騒いでいたからです。
先走りして裁くと言うことは、断罪を意味するだけでなく、人が誉れを与えることも裁きのひとつの姿なのです。神が正しく裁かれると言うなら、誉が与えられることもまた当然のことと言えるでしょう。
ですから神に先走って、人間が、あの人、この人と持て囃して誉れを与えることは間違いなのです。
信仰者は、自分の人生について神に信頼し、委ねると共に、人の人生についても同様に神に信頼すべきなのです。わたしたちの周りには、栄誉を与えたいと思う人もあるでしょう。だからと言って主のからだである教会にあっては、主が来られるまでは、いたずらに誉めそやしたり、また蔑んだり、切り捨てたりしてはならない、と言うことです。主が来られるときに下される判定を期待して、ともに謙虚に歩みましょう。
義とされた喜びを失わず、再び来てくださる主を信じ期待して、信仰の馳せ場を走り抜きたいものです。


                      (説教者:柏原教会 協力牧師  岸本 望)