柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「栄光の冠」 第2テモテ4章1-8節

本日は日本ミッションの伝道者であられた豊田龍彦先生の召天35周年記念の礼拝とさせて頂きました。

豊田先生が柏原市東にあります高尾山山頂で祈りの内に召されて35年になります。当時のことを偲び、黙想する中に「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。」(ヘブル 13:7)との御言葉が心のうちに与えられました。

1973年8月12日に羽曳野教会の献堂式がありました。そしてそのちょうど一週間後の8月19日に先生は高尾山上でお召されになりました。私は、なぜあんな若くて元気な、しかも主のために一生懸命奉仕をされている先生が召されるのか、まったく理解できませんでした。しかし今思うに、「一粒の麦、もし死なば多くの果を結ぶべし」(ヨハネ12:24)と語られているように、先生は私たち主に従う者の生き方を示して下さったと思います。

第2テモテ4:1〜8を開きましたが、1節見ますと、神の御前とあります。やがて私たちは、死ぬときがあります。その時になって慌てふためかないように、パウロは私たちが今なすべき大切なことを語っています。


1,御言葉を伝えることです。

聖書の言葉を他の人に話すことです。そんなことできない。という人があるかも知れません。でも聖書にはわかりやすいことも書かれてあります。たとえば、「豚に真珠」(マタイ7:6)や「七転び八起き」(箴言24:16)は聖書からでた言葉です。「目から鱗が落ちる」(使9:18) もそうです。普段接する人にも、聖書に書いてあるよ、と単純に話を切り出すことができます。
そして教訓的なこともあります。「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」(マタ 7:12)こんなすばらしい聖書の言葉を、誰かに話すことは決して不可能なことではありません。必ずできます。


2,与えられた使命を全うする

「救われたのは、救わんがため」という言葉があります。クリスチャンにとって何が一番嬉しいかというと、自分が救われたことであると思います。私たちには困難や、苦しいこと、また何もかもいやになって投げ出したくなることがあります。そんなときにもイエスさまが私を慰め、励まして下さることを信仰の中で体験できます。それは、聖書の言葉を通して励ましが与えられて、心が勇気づけられ元気が出、やる気が起きてくるのです。何とかしてこの救いの御言葉を他の人にも伝えたい。そんな思いでいっぱいになることでしょう。おそらく、豊田先生もその思いでいっぱいではなかったかと思います。ある方は「救いの情熱に、肉体もついて行けなかった」といわれました。このすばらしい救いを一人でも多くの人に伝えたい、その救霊の情熱が、先生を燃やし、伝道の人、祈りの人とならせたのではないかと思います。私たちも、自分に与えられた救いの使命を全うさせて頂きたいと思います。


3,栄光の冠の備え

7節でパウロは「勇敢に戦い、信仰を守り通した。」といっています。この世で信仰を守ることは簡単でありません。それは戦いです。この世では様々な誘惑、試練があり私たちをキリストから引き離そうとします。そのような世の力や悪魔の策略に対しての戦いがあるのです。それに打ち勝つために、私たちは神の御言葉を読む必要があり、礼拝に出て神の恵みにあずからなければ、勝利はありません。信仰生涯はまさにマラソンレースのようなものです。マラソンラン勝者には、月桂樹の冠が与えられました。それと同じように、人生の勝利者に神様は、義の冠を与えると約束して下さっておられます。
私たちはこの世に対してどれだけ期待ができるでしょうか。年金暮らしもままならないし、医療保障も期待できません。パウロは世を去るときがきたと6節で語っています。去るというのは舟が岸壁から離れるのが元々の意味です。私たちはこの世にしがみつくものでなく、この世から聖別され、神の栄光を待ち望むものでありたいものです。この世でのはかない幸せを期待するものでなく、永遠の命、天国の希望に心躍らせるものでありたいのです。
義の栄冠とは、キリストの十字架で全ての罪が赦され、神の子としての特権が与えられることです。しかも、パウロのように優れた人だけでなく、キリストを慕う誰にでも授けて下さいます。私たちにも、義の冠が与えられるのです。
豊田先生も、信仰の馳せ場を駆け抜けて行かれました。そして義の冠にあずかっておられます。私たちも、先生のキリストに対するひたむきな信仰にならって、一人ひとりに与えられている使命を全うしたいと思います。そしてどんなときでも御言葉を語り、キリストの救いのすばらしさを身をもって現したいと思います。神様は私たちに栄光の冠を授けようと待っておられるのです。


                              (説教者:柏原教会牧師 西本耕一)