柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「いのちの冠を受けるために」ヤコブ1章2-12節

この手紙は、主の兄弟ヤコブから、離散したクリスチャン、試練の中にいる兄弟たちを励まし、また信仰があれば行いは伴わなくても良いと考えたり、欲望に引かれこの世的な生き方をしているクリスチャンを戒めるために書かれたと言われています。


1,試練を喜びとする

誰でも試練に遭うことを喜びとはしません。主の祈りでも「試みに会わせず、悪より救い給え」とあります。しかし、ヤコブは、神から受ける試練を喜びとせよ、言っているのです。なぜでしょうか。
それは、試練によって忍耐が生じる、ということです。忍耐力が与えられれば、我慢することができ、堪え忍び、勝利することができるのです。特に信仰の世界においては、この忍耐というものが大切です。それはローマ5:3〜5においても、パウロは、「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す。この希望は失望に終わることはない」と同じことを言っているのです。いわば1世紀のクリスチャンはこの忍耐が与えられて、困難な迫害を通り信仰の勝利を得ていったのです。
もし、私たちも自分の人生に勝利が与えられたいとするなら、この信仰の忍耐を得るべきであります。どのようにして忍耐を得ることができるのか。小島伊助先生は、信仰+試練=信仰×験し=信仰−かす=忍耐という方程式を編み出されました。
信仰は、試されることによって、銀がるつぼで熱せられ、金かすが取り除かれ、純粋な銀が鏡のように現れてくるようなものです。試練に遭うことにより、信仰のカスは取り除かれ、純粋なものが現れてくるのです。そこに、本物の忍耐が現れ出てくるのです。
そして、4節を見るなら、その忍耐を完全に働かせなさいと言われます。自分が忍耐をするのではない、自分の内に与えられた信仰の忍耐を完全に働かせる、つまりは忍耐に自分の代わりに働いてもらうことです。別の言葉で言うなら、信仰に働いていただく。パウロもガラテヤ2:20において、最後に、神の御子を信じる信仰によっている、とはっきり言っています。信仰と忍耐とはある意味、表裏一体です。信じるとは、忍耐を完全に働かせることであり、そうするなら「完全な者」となることができるのです。
そして私たちは、そのことが解るように知恵を求めなければなりません。ソロモンもまず、知恵を求めました。そして、富も名声も栄誉も与えられました。私たちは何を求めるべきでしょうか。?コリント1:24には「神の知恵たるキリスト」とあります。私たちが求めるものは、この世のものではなく、キリストが与えて下さる正しい判断・決断・実行力を与えて頂くほかにありません。主は求める者に与えられます。信じて疑わない心を持つことです。


2,いのちの冠を受ける

なぜ私たちは試練を耐え忍ばなければなりませんか。それはいのちの冠を受けるためです。いのちを失っては、何の意味もないのです。私たちは、神の裁きそして永遠の滅びも知らなければなりません。地獄の苦しみを永遠に味わわないように、永遠のいのちを受けなければならないのです。
そのために、試練は必要です。試練によって人間は謙遜になり、信仰を持つことができるようになるからです。
貧しい者は、信仰を持つべきです。それは、神のあわれみによって、神の子とせられた、そのことを誇りに思うべきです。富んでいる人は、自分が謙遜にされることを誇りとすることです。試練によって、富める者もへりくだります。
この世の富は、草花のようにやがて滅びます。しかし、神の豊かさ、天の宝は滅びることがありません。それを私たちは信仰により、忍耐によって得ることができます(ヘブル10:34〜36)。
もうすぐ、冬季オリンピックが始まります。競技者は金メダルを目標とします。私たちは、キリストによっていのちの冠を得る者とさせていただきましょう。


                  (宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)