柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「新しい命」ヨハネ3章1~15節

 私たちは「新しい」という言葉に魅力を感じます。以前使っていました中古の家電製品は、使用している途中から異音が鳴り、壊れてしまいすぐに処分しました。私たちの命も、ある意味同じ面があります。罪を持つ人間のありのままの命は、罪の影響でガタガタと異音を上げながら、やがて命が壊れてしまう。滅びを刈り取ることとなるのです。しかし、新しい命を得るなら、決して古くなることはなく、永遠に至る命が与えられるのです。

⑴新しく生まれることに関して無知であったニコデモ
 ニコデモは「ユダヤ人の議員」であり、聖書のエキスパートでした。現在に当てはめるなら、早稲田大学を卒業し、大学教授をしている、エリート中のエリートです。彼はイエス様が、「神のもとから来られた教師である」と言いました。イエス様はほかの人とは違う何か特別な人だと理解していたのです。しかし、イエス様のことを「救い主」だとは認識してはいませんでした。

 彼は「夜」にイエス様のところに訪れたことが書かれてあります。当時、パリサイ派の人々は、人々の人気を集めるイエス様 に嫉妬していました。ですから、他のパリサイ派の人の目を気にして夜にイエス様のもとを訪れ、イエス様のお言葉を求めたのです。イエス様のとの会話を見るとき、ニコデモは自分の救いに関して不安だったのかもしれません。ニコデモは、イエス様がおっしゃった「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」ということばを理解できず、霊的事柄に対して無知だったのです。

⑵新しく生まれることをニコデモに求めたイエス

 イエス様はニコデモに対して「まことに、まことに」とたびたび繰り返して語られました。このことは知っ てほしいとイエス様の愛ゆえの情熱がニコデモに向けられていたのです。どのようなエリートであったとしても、人は新しく生まれなくてはいけないのです。
 
 イエス様は水と御霊によって生まれることを求めました。水はエゼキエル 36 章に書かれてあるように、罪からのきよめを意味します。そして、人の努力ではなく御霊によって人が新しく生まれることができるのです。その変化は風がいつ、どこで、どのように吹くかわからない自然現象のように、御霊も予測不可能な形で人を新しくするのです。
 私たちの命は、水と御霊によって新しく生まれるなら、 どんなに年老いても、決して滅びることのない永遠の命に生きることができます。イエス様はそのために十字架にかかられたのです。

⑶イエス様の十字架にあって新しく生まれる私たち
 イエス様は民数記の出来事を用いて、人の子、すなわちイエス・キリストは十字架にかけられなくてはならないことをニコデモに伝えました。十字架に上げられたイエス・キリストを仰ぎ見る者が救われる。新しく生まれる者です。古い命に生き、罪の中に生きている私たちを救い出し、新しい命を与えるためにイエス様は十字架におかかりくださった。

 「ですから、だ れでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(Ⅱコリント 5 章 17 節)」キリストのうちにあるもの、絶えずキリストの十字架を仰ぐ者は、新しくされ続けるのです。受難週に入りましたが、イエス様の十字架を想い起こし、感謝しつつ新しい命に生きる一週間でありたいと願います。

(宣教者:南大阪キリスト教会 伝道師 小菅 翔)