柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「キリストがあがめられる」ピリピ1章19‐26節

パウロは困難な中に、キリストの救いの素晴らしさをピリピの人たちに伝えました。その喜びは2000年経っても変わることなく全世界の人たちに伝えられています。

1,パウロの救い
 彼は獄中にいましたが、何よりもピリピの人たちの篤い祈りに感謝していました。彼らの祈りによって、御聖霊は働かれ、御霊の助けとありますが、それは小さな「助け」ではなく、計り知れない大いなる助けです。供給とも訳されますが、御霊の助けとは、勝ち得てあまりあるほどの供給―喜びが御聖霊により、獄中にいるパウロにもたらされたと言うことです。
 ですから、今日私たちが大変苦しい目にあっても、背後の祈りと、御霊の助けによって、豊かな人生を過ごしていくことが出来るのです。それはかつて、パウロがピリピの獄中にいたときも同じでした。彼はシラスと賛美し、祈りそして、獄舎が地震で揺れ、解放されたのです。
 パウロは、獄からの解放と共に、何よりも多くの人が救われること、福音の前進を願っていたのです。

2,キリストがあがめられる
 パウロの願は、牢から出て25節や26節にあるように、ピリピの人たちと共におり、イエス様の救いを語り分かち合うことであったと思われます。しかし、現実にはパウロはローマで殉教しました。それでも彼のピリピの人たちに対する喜びは変わりませんでしたし、彼の思いはこの地上のことではなく、23節にあるように、この世を去ってキリストと共にいることです。ですから、彼がピリピの人たちと一緒になることは、この世での再会の希望だけでなく、天の御国で遭うことも彼は確信を持っていたことでしょう。そして、ピリピの人たちもこの手紙を読んで、同じ確信に至ったことであろうと思います。当然私たちも、天国でお会いすることが出来る、素晴らしい約束でもあるのです。
 ですから、パウロは21節で「死ぬことも益です」と語り、23節では「私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです」と証ししています。彼は死を恐れず、死ぬことさえ厭わないのです。なぜそれが可能なのか、その秘訣は21節にある「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です」という言葉に表されています。
 そして、その目的は20節にある「私の身によって、キリストがあがめられることです」と告白しています。
 彼は、キリストがあがめられることを目的として生きてきました。ダマスコの途上で復活のキリストにお会いしてから、ローマの獄屋に至るまでも、彼の生涯の目的はキリストがあがめられることであったのです。彼はそれを言うだけでなく、実践してきました。
 その原動力が、キリストご自身でした。21節の「私にとっては、生きることはキリスト」とは、死んでよみがえられた方が私のうちに生きておられると言うことであり、ガラテヤ2:20で証ししていることと同じ事です。
 パウロの内にはキリストが生きて居られた。それが彼の生きる原動力であり、御霊の助け―十分な供給となって彼は人生を走り抜いていったのです。
 願わくは、私たちもパウロのごとく、「我にとりて、生くるはキリストなり、死ぬるもまた益なり。」と証ししたいものです。

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)