柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「実を結ぶために」ヨハネ15章1-2節

今年も早1月は終わり、2月の半ばになっています。今年の標語聖句は4節ですが、私たち自身が豊かな実を結ぶことを心がけて行きたいと思います。


1,神の姿−キリストと御父

ぶどうの枝はそれ自身で実を結ぶことはできません。必ず木につながっていなければ実を結ぶことはできないのです。イエス様はここでご自分のことを「まことの」ぶどうの木と言われました。そこに一つの強調点があります。なぜなら、本物があれば偽物もあるのです。本物の救い主もいれば「偽物の」救い主もいるのです。
どこがちがうのでしょうか。本物は私たちのためにご自身の命を捨てる方です。逆に偽物は、私たちの命を奪い、あるいは私たちの命を利用して自分が豊かになる、それは偽物の救い主であると言うことです。
イエス・キリスト十字架の上で死なれました。それは私たちの命を救うために、私たちの罪を赦すために死んで下さったのです。私たちのために命を捨ててくれる人があるでしょうか。喜んで犠牲になるという人はいるでしょうか。それはキリストしかおられないのです。その方につながっていれば私たちは、豊かな実を結びます。愛の実、喜びの実、平安の実聖霊によるところの豊かな実を結ぶことができるのです。
そして、もう一人重要な方がいます。農夫です。それは父なる神様を表しています。農夫は枝の手入れをします。それはもちろん良い実を豊かにならせるためです。父なる神様も私たちが聖霊によって良い実をたくさんならせることを喜ばれます。また、期待しておられるのです。そのために、私たちのお世話をされます。


2,実を結ぶための刈り込み

ぶどう園では農夫の大事が仕事があります。それは「刈り込み」ということです。この刈り込みなしに枝は良い実を結ぶことはできないのです。
ぶどうには一つの性質があります。それは放っておくと野生に戻るということです。実は結びますが、酸っぱくて小さい、およそ役に立たないものになってしまうのです。人間も同じだと思います。自己中心に陥ってしまい、神にも人にも喜ばれない、鼻持ちならないものとなってしまいます。イスラエルはそうでした。自分が選ばれている、他のものとちがう、特別な存在だといって高慢になってしまったのです。そして、国が滅ぼされる、虐殺されるといった試練を受けたのです。
おそらくそれは私たちにも当てはまることでしょう。私たちは、どんなものか、果たして良い実を結んでいるのか知る必要があります。そして、そのために神様は私たちにも「刈り込み」試練を与えて、より良い実を結ぶ者として下さるのです。
2節にある、「取り除き」と「刈り込み」は大きな違いがあります。取り除きはある意味滅びを意味しています。刈り込みはちがいます。確かに余分なところは切り取られ、芽も摘まれます。痛みは伴うでしょう。私たちにとっては苦しい試練かもしれません。しかし、そのことによって平安な義の実を豊かに実らせることができるのです(ヘブル12:11)。
神様は私たちの内にある喜ばれないもの、神を悲しめるものを私たちに知らしめ、そして取り除かれることがあります。私たちにとって痛みではありますが、その手術を受けなければ命取りになるのです。この世のすばらしさに心引かれ、朽ちるものを求めていっても、自分もまた滅びにいってしまうのです。取り除かれることと刈り込みはちがいます。キリストにつながっているものは滅びません。しかし、まことのぶどうの木につながっているなら、私たちは堪え忍ぶことができるのです。イエス様の十字架を私たちは仰ぐことができます。キリストの十字架によって、そして流して下さった血潮によって私たちは赦され、更にしっかりと繋がり、愛の実喜びの実平安の実、聖霊による豊かな実を結ばせていただくことができるのです。

            (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)