連日暑い日が続いています。試練のような暑さです。私たちもまた、様々な試練を通して信仰が強められ、そして豊かな神様の祝福に与ることができるのです。
ここに、一人の盲人の話が出てくるのですが、このことも大切な意味があり、私たちの信仰が強められることそして神様の素晴らしい祝福に与ることができることを知るのです。
1,人間の問題
聖書にはよく、盲人のことが出て来ます。一つには、道が整備されていなく、砂ぼこりが多かっただろうと思います。当然目の悪い人も多くあったでしょう。
しかし、またある意味で、心の目の開かれていない人たち、すなわち、神を信じない人たちのことを、目の開かれていない人として語られていることがあります。特に、パリサイ人や律法学者は、神を信じているといいながらも、全くそうではない生き方をしていました。「論語読みの論語知らず」という言葉もありますが、彼らは聖書を読んでいながら、神のあわれみも愛も信じられない人たちでした。また、私たちもそうならないように気をつけなければなりません。「神は愛である」と言いながら、人を批判する心にイエス様の十字架の愛が満ちあふれているのか、点検させていただかなればならないのです。
このところでイエス様と一緒にいた弟子たちは、質問しました。「盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか」と。そこには、盲人に対する、あわれみも助けてやろうとする思いも感じられません。むしろ、第三者・他人として、ただ聞いているというものでしかないのです。それが、私たち人間の姿ではないかと思います。2年前、大地震がありました。その人たちの願いは自分たちを忘れないで欲しい、と言うことですが、私たちはどれ程の関心を今持っているでしょうか。私たちの一つの弱さは、無関心と言うところにあります。もう一つの問題は、あきらめです。もうこうなっているんだから、仕方がない、できないと言う思いが私たちの心に働きます。
弟子たちは、「だれが罪を犯したからですか」と尋ねましたが、たとえそれをしたところで、彼の目は開かれるでしょうか。答えはノーです。たとえ、その原因を突き詰めたところで、生まれつき盲目の人を見えるようにするのは不可能です。ですから、これは私たちが日常聞く「因果応報」と同じようなものです。悪いことをしたから、こんな結果になったんだ。もう、しょうがない、あきらめるしかないとなってしまいます。そうした思いが多分に私たちにもあるのではないでしょうか。人には改善する力はないのです。
2,神の答え
イエス様は、弟子たちの質問を受けて、この人が罪を犯したのでも両親でもないと、罪が原因であることを即座に否定されました。そして、「神の御業が現れるため」と答えられたのです。否定的な考えから、喜びや希望は生まれてきません。あるのは、絶望だけです。罪の結果は何でしょうか。ローマ書6章23節を見るなら、死であると答えは出ています。本人の責任や、親の責任を仮に問うたとしても、よい結果は何も出て来ません。私たちは、人の弱さに原因を求めるのではなく、たとえ否定的な問題、人間の力によって解決できないようなことも、神に求めていくことです。
イエス様は、はっきりと「神のわざがこの人に現れるためです」と答えられました。ですから、私たちも困難に直面したときどうするのか、すぐイエス様に求めることです。本当に不思議なのですが、イエス様に求めると解決が与えられます。
そして、イエス様のその答えには積極的な生き方があります。神の御業が現される、何と素晴らしいことでしょうか。奇跡が行われると言うのです。私たちは、困難があっても、ただ信じることにより奇跡を見ることができる、そのチャンスが与えられているのです。
3,光のあるうちに
信仰のチャンスというのは、先のことではありません。むしろ、今がそのときです。イエス様は「昼の間に行わなければなりません」と言われました。今がそのときです。今は聖霊の働かれるとき、神の御業が前進するときです。今の時代ほど、救われる人が多い時代はありません。今クリスチャンは20億以上います。様々な困難逆境を乗り越えています。かつて暗黒大陸と言われ、現在も、部族間の紛争があり、飢餓や病気で苦しんでいるアフリカに福音は伝えられ、救われる人は多くいるのです。そして、イエス様に出会ったこの盲人の人はイエス様を救い主、神と信じる信仰により目が見えるようになりました。
私たちもまた、様々な場面で、原因は何か、罪はどこにあるのかとあら探しするのではなく、神の御業がここに現れるためであると信じて、イエス様に救いを求めましょう。
(宣教者: 柏原教会牧師 西本耕一)